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第39話

「夏が突然僕の下宿に来たのは、あらしから三か月も経った雪の日だった。あかく燃える火鉢の前で、静かに夏の話を聞いて、僕たちは一緒に暮らすことにしたんだ。全く上手くいかなかったけどね」 舟而は苦笑した。 「何だろうね。犯した罪の大きさに、押しつぶされたのかね。どうやっても晴れて夫婦にという心持ちにはなれなかった。かと言って姉弟を名乗ってもどこか他人行儀なからりとしないものが残るし、何度か住まいを変えて、ようやく主人と女中で落ち着いた」 「さよ……、でしたか……」 「僕たちはそれでもどこかいつも自分の命を危うく思っていた。この世が現実と思えず、すでに死んでしまっているような、弱々しい気持ちでいた。いつ死んだとしても痛みも苦しみも感じないんじゃないかと、そんなふうにも思っていた」 舟而は不意に晴れやかな笑顔になり、話し声も一調子高くなった。 「白帆が来てくれて、僕は突然に毎日のことが楽しくなったね。毎日がこんなに楽しくていいのかと、気が差して仕方がなかったよ。白帆が来てくれて本当によかった。夏の言う通りだ」 白帆は唾液を飲み込んで口を湿してから、おそるおそる舟而に問うた。 「本当によかったんでしょうか。私が転がり込んだことが、お夏さんを死に向かわせちまったように思えて、どうしよもないんです」 舟而は笑顔のまま、ゆっくり首を横に振った。 「どっちにしたって、早晩、夏は死んでいたよ。僕と死ぬか、一人で死ぬかの違いだけだった。白帆が来てくれたから、僕は生きながらえた。むしろ白帆は僕を救ってくれたんだよ」 「お夏さんにも死んでほしくはありませんでした」 「でも、夏はずっと死にたがっていたからね。自分で殺したくせに、旦那のことを愛してた。だったら僕のほうを殺せばよかったのに。ばかな女なんだ、夏は……。ばかな女なんだよ……」  舟而は長い時間、膝に目頭を押し付けて肩を震わせ、嗚咽を漏らした。  夏、夏。夏、ごめん。ごめん……、夏……。  はっきりとは聞き取れなかったが、ひたすらそう言い続けているようだった。  その間も、松林の間を鋭い風音がひゅんひゅんと鳴り響いていた。  白帆は目を大きく開け、喉をごくごく鳴らして自分の涙は全部飲みながら、地面に繁柾の下駄の歯を突き立てて舟而を見守った。  かなり長い時間が経ってから、ようやく舟而は手のひらでぐいぐいと左右の頬を拭って、洟を啜って、顔を上げた。  そして突然しっかりと目の焦点を合わせ、清明な瞳で白帆を見た。 「何ていう顔をしているんだい。全部嘘だよ。 僕は小説家だからね、作り話をするのが仕事だよ。 全部嘘だ」 白帆は頷かなかった。  舟而は立ち上がると、まるで見えない糸で引き寄せられてでもいるかのように白帆の前を通り過ぎ、真っ直ぐ海に向かって歩いて行った。 「先生っ! お待ちくださいっ!」 白帆は追いかけて、白い砂浜の上で追いつき、その腰に腕を回してしがみつく。  舟而は素直に立ち止まって、白帆のおかっぱ頭をぽんぽんと撫でた。 「白帆はもう、ほとんど声が掠れなくなったね。躍進座の親方の元へお帰り」 「先生は。先生はどちらへ」 「僕? 何を変なことを言っているんだい。僕だって帰るよ」 白帆に見せたのは、五月の風のように爽やかな笑顔だった。 「お供します。女中がいなかったら、お困りでしょう」 「困らないよ、もう」 ああやっぱりと白帆は思った。 「ご飯を炊くこともできないくせに、女中がいなくても困らないようなところへ帰られては困ります。 お夏さんのところですか、お子さんのところですか。 お二人のところへ帰るのは、もっとずっとずっと先でいいじゃありませんか」 舟而は口を突き出す。 「ほかに帰る場所なんてないだろう」 「あります。私のところです。私のところへ帰ってきてください」 「お前の?」 舟而が鼻で笑った。白帆は取り合わず、舟而の正面に立ちはだかった。顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、繁柾の下駄を履いた足は冷たい波に濡れたが、構わなかった。海を背に両手を伸ばせる限り横へ広げて、両足を踏ん張って、強い風に負けないように、舟而に届けと腹の底から喋った。 「私はっ! 私は、先生が書く芝居を演じますっ! 芝居がはねたら、吾妻橋の向こうの家へ帰りますっ! だから、先生も帰ってきてくださいっ!」  舟而は片頬を上げる。舟而の革靴にも波が掛かった。 「どちらかというと、家で仕事をしている僕のところへ、お前さんが帰ってくるんじゃないのか」 「じゃあ、それでもいいです。でも、夜、布団の中で先生が帰ってくるのは、私の中です。私の中へ帰ってきてください。お願いです。お願いします……、お願い…………」  舟而はもう海の奥へ行こうとはしなくて、ただ泣きじゃくる白帆を胸に抱き、背中に手を当て、髪を撫でた。 「……いいんだろうかね。僕だけが長生きをして、楽しいことをして、笑って、遊んで暮らしていても。いいんだろうかね」 「もちろんです。この世だって地獄です。いいことばかりじゃありません。実際、今だって先生は、死にたいほど苦しいじゃありませんか。だから……、だから死ぬまで私と生きる地獄を楽しみましょうっ! 私たちは一蓮托生ですっ」 白帆は力一杯舟而を抱き締めた。二人の足にはひたひたとした満ち潮の波が打ち寄せ、ずるりと返して泡沫が弾け、また冷たい水が襲って、引いた。  舟而も白帆を改めて強く抱き締め、黒髪に頬を擦り付けて、涙声で言った。 「ああ……。苦しいな。お前さんの言う通り、生きるも地獄だ。こんな地獄でお前さんと手を取り合って生きていくのか」 「はい。決して楽じゃござんせん。覚悟なさいまし」  波が打ち寄せる強い音と、松林を抜ける風の鋭い音が、抱き合う二人を取り巻いていた。 「わかったよ、一蓮托生だ。僕のことを頼んだよ」 「はい。私のことをお願いします」  互いの唇の形が歪むほどに強く口を押し付け合っても、頬を伝う涙は入り込んできてしょっぱかったが、それでも負けずに唇を重ねた。  明けた空に鳶の鋭い鳴き声がして二人は目を開け、気持ちを支え合うように手をつなぎながら白い砂浜を歩いた。濡れた足はぐしゃぐしゃと気持ち悪く、足元の砂は常に崩れて、歩きにくい道だった。でも振り返れば二人の足跡は確実に刻まれていた。 「あ、痛っ」 割れた貝殻の欠片が、白帆の下駄と足袋の間に入り込んだ。足袋の裏に小さく血が滲んだ。 「大丈夫か」 「大した傷じゃないです。唾つけときゃ治ります」 踵に血をにじませて痛みをこらえて歩く白帆の姿に、舟而は手掛かりを得た。 「そろそろ新しい話を一本書こうかね。お前さんが舞台に上がれる話を、書いてみようかね」

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