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第38話

 白帆(しらほ)は振り返って手を振る羽二重餅に会釈したが、舟而(しゅうじ)は骨壺を抱え、振り返ることなく警察署を出た。  どかどかと足を踏み鳴らし、肩をいからせて、日没間際の温泉街を歩く。 「まったく参ったよ。僕がお夏ちゃんを殺したって決めて掛かっているんだもの。正直に言うまで、好きなだけ泊まっていけってさ! どれだけ人のことを疑えば気が済むんだか」 「ひょっとしたら、帰りの汽車がなくなる時間まで警察に足止めをして、温泉にお金を落としていくようにと、そういう仕組みなのかも知れません」  隣を歩きながらすまし顔で白帆が言うと、舟而は白帆の横顔を見てから破顔した。 「そうか、僕たちは思う壺って訳だ」  二人は旅館に一泊して、地物の魚を食べて、滾々(こんこん)と湧く温泉に身体を浸すことにした。 「今日くらいは、白帆もどうだい?」  青い染付の徳利を傾けて見せた。 「いただきます」  白帆は半筒形の猪口を差し出して酒を受けた。  二人は床の間に置いたお夏の骨壺に向けて静かに猪口を掲げてから、酒を口に含んだ。口の中で蒸発するような熱い感触に、取調室で飲まされた煮え湯を思い出し、白帆は冷静にしみじみと言う。 「寂しいですね」 舟而は手酌しながら目を弓形に細める。 「そう言ってくれるのが僕一人じゃないだけ、お夏は幸せだ」 口角の上がった口で、水のようにするりと酒を煽った。  名産だという寒平目の刺身は肉厚で歯ごたえがあり、噛むほどに滋味が口の中へ広がる。 「このお魚も……。駄目ですね、何につけてもお夏さんと思っちまう」 「それが弔いってもんだろう。そう思ってやることがお夏への供養にもなるさ」 舟而は同意を求めるようにお夏の骨壺を見やって、五月の風が吹き抜けるような笑顔になった。  檜の浴槽には、塩分を含んだ透明な湯がたっぷりと絶え間なく流れ込んでいた。 「気持ちのいいお湯ですね……。お夏さんもこのお湯に……っ」 白帆の涙はいとも簡単にこぼれてくる。  ほかにも入浴客がいたので、白帆はところどころ黒ずんだ高い天井を見上げて必死にこらえた。  湯の中で、舟而がそっと白帆の手を握ってくれた。  部屋に敷かれた二組の布団を、舟而はぴたりとくっつけた。 「先生、今日はとてもそんな気分にはなれません」 「わかってる」  白帆は舟而に抱き寄せられるまま、胸に頬を押し付け、腕の中に包まれた。 「お夏さんは閻魔様への道を一人きりで耐えて歩いていらっしゃるでしょうに、私だけ先生に甘えてずるいですね」 「白帆は何もずるくない。ただ、僕が白帆を抱いていたいんだ」  舟而は白帆の細い身体をきつく抱き締めると、黒髪に頬ずりして顔をうずめ、目を閉じて深く呼吸した。  夜明けの清澄な空気の中を、舟而と白帆は海岸の松林へ行った。前日に警察でお夏の発見現場と教えられた松の木の根元に、小菊の数本を供えて手を合わせる。  松の木に向かって手を合わせてから後ろを振り向くと、風なりに身を反らせながら強く伸びる松の木々と、その合間から白い砂浜、そして果てなく続く海が見えた。 「景色のいいところですね。こんな寒い季節でも松は青くて、砂は白くて、海は広くて。最期に目にされた景色がこれだったなら、少しだけこちらの気持ちも救われるよな気がします」  白帆は切れ長な目を細めた。  松林を風が吹き抜けると、松葉と同じくらい鋭い音を立てる。  舟而は海のほうを向いて立つと、お夏が寄りかかっていたとされる松の木の根元に屈み、膝を抱えてそっと松の木に寄り添った。その姿は仲の良い姉弟が肩を寄せ合って海を見ている姿にも見えた。 「先生は、お夏さんと実の姉弟でらっしゃるって、本当ですか」 白帆の問いに、舟而は海を見たまま、うんうんと頷いた。そう言えばお夏もうんうんと二回頷く癖があったように思う。 「夏の家に子供がないからと、生まれる前から親同士で約束されていて、夏は生まれてすぐに養女に出されたらしい。……夏と僕は目が似ていると思っているけど。どうだい?」 舟而が細めて見せた弓形の目に、お夏の三日月形の目がぴたりと重なって見えた。 「よく似ていらっしゃいます」  舟而は自らを嘲笑うような変な笑い方をして、海の水平線よりももっと遠くを見た。  その瞳がどこかへ行き着いたとき、舟而は口を開いた。 「流れたのは僕の子供だ」 「え?」  白帆は聞き返したが、舟而は遠くを見たまま話し続けた。 「夏を水揚げした旦那は、あらしの日に川へ落ちたんじゃない。 夏が土手から突き飛ばしたんだって。 夏は川沿いを泣きながら追い掛けて、旦那が草木に掴まって助かりそうになるたびに、その指を引き剥がして。 周囲からは身重の夏が必死で手を伸ばして、旦那を助けようとしているふうに見えたらしいけど、夏は必死で殺していたんだって。 旦那が、お腹の子供の父親が僕ではないかと勘づいたから」  舟而はまるで松の木がお夏そのものであるかのように見ながら話した。 「僕たちは、とても浅はかだったんだ。 好きだから、愛しているからなんていう理由で、思いを遂げてはいけない。 そんな簡単なことを知らなかった。 純粋な気持ちは強くて美しい、その一面しか知らずに突き進んでしまった」 白帆は目の前の景色が自分を取り巻いてぐるぐると回るような感じに囚われながら、懸命に足に力を入れて、松の木に寄り添う舟而の姿を見ていた。

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