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3:プライドと不協和音
―――きっとみんなに名前覚えてもらえたぞ?
神崎父は、正しかった。
いろんな意味で前代未聞となった彼の総代挨拶は、『神崎理人』の名を大成高校の全生徒に知らしめた。
さらに、一世一代の場でズッコケてしまう抜けっぷりや、膝から血を流しながらも堂々と挨拶をこなしてしまうほど据わった肝っ玉。
かと思えば、怪我の治療が怖いくらいでまさかの大号泣――たった三十分やそこらの間にここまでいろんな一面を見せられてしまったんだ。
庇護欲を掻き立てられたのは、きっと一人や二人じゃない。
人間は、ことさらギャップに弱い生き物だから。
「神崎、お前な……いい加減、自分で起きろよ」
「だって……ねむいもん……」
「もんって……もう高校生なんだから、しっかりしろ」
「あてっ」
寝癖だらけの頭を小突いて喝を入れたのは、弓道部の岩清水 部長だ。
クールで硬派なのが売りだった彼もすっかり絆されて、気がつけば神崎理人の目覚まし係になっていた。
毎朝律儀に部屋まで行って彼を起こして、こうして食堂に引きずってきて甲斐甲斐しく朝食を食べさせてから、朝練へと連行していくのがいつもの流れ。
トイレを持ったままフワフワと不安定に揺れる神崎理人を見下ろす岩清水先輩の眼差しは、まるで我が子を見守る父親のように暖かい。
「おはよう、岩清水、神崎くん」
「おす」
「桜木 会長……おはよ、ございます……」
生徒会長の桜木先輩が、フレームの細い眼鏡を押し上げながら苦笑した。
「今日も眠そうだね。そろそろ体育祭の話を進めたいんだけど、放課後集まれそう? 大丈夫かな」
「はい、大丈夫です……たぶん」
「たぶん?」
「心配するな、桜木。必ず行かせる」
「ふふ、ありがとう、岩清水。じゃあよろしくね、神崎くん」
「ふぁーい……あてっ」
特待生として入学した神崎理人の高校生活は、僕の想像以上に多忙を極めていた。
本来は自由参加のはずの部活にも強制参加、生徒会にも問答無用で名を連ねられ、さすがにクラス委員長の座は譲ったけれど、副委員長として委員長のサポートに勤しんでいる。
正直「完全にキャパオーバーだろ」と思ったのは僕だけじゃないと思うけれど、そんな僕たちの予想を跳ね除けるように、彼は毎日すごく楽しそうだった。
「神崎、おはよ」
「んー……おはよ」
「お前、ジャージ裏返しじゃね?」
「ぅへ? あ……ほんとだ」
ヘラりと笑った彼の頭を撫でるのは、なにも先輩たちだけじゃない。
神崎理人の名前を覚えた生徒のほとんどが、彼に対して好意的だった。
新入生の中で一際小柄だったことも手伝い、寮生全員がまるで彼を末っ子扱い。
中でも、際立っていたのは――
「お、神崎くんじゃん」
「木瀬先輩! おはようございます!」
半分以上閉じていたアーモンド・アイが、一気に全開になった。
あの絆創膏のやり取り以来、木瀬先輩を見上げる彼の目は、ハート型がデフォルトだ。
無関係の僕にまでダダ漏れってことは、誰にも彼にもバレバレってことで、もちろんその中には、木瀬先輩本人も含まれている。
「おはよ。今日のヨーグルト、お前の好きないちご味だぜ」
「ほんとですか、やった!」
「プハッ! よしよし。たらふく食って、朝練、頑張るんだぞー」
木瀬先輩は、サラサラの黒髪をわしゃわしゃと掻き回した。
気持ち良さそうに目を細める神崎の後ろで、岩清水先輩が眉を顰める。
彼は、神崎理人の知らない木瀬先輩の噂をよく知っているからだ。
その噂話が、あながち的を外していないことも。
「あ、今日はこけんなよ?」
「こ、こけません!」
「かーわいーの」
「……ッ」
これが、神崎理人の日常。
どれだけ、チヤホヤされてようが、
どれだけ、弄ばれてようが、
僕には関係ない――はずだったのに。
「西園寺が神崎とバディってマジか」
「先生、分かってやってんじゃね?」
「ついに血が流れることになるんじゃ……!」
ゴールデンウィーク明けのホームルーム。
初夏の爽やかな空気に対抗するように、特進Aクラスの教室は、不協和音でざわめいていた。
大成高校は実力主義だけど、決して救いの手を差し伸べないわけではない。
優秀な生徒だけに注目していると落ちこぼれを出すことになり、結果的に学校全体の評価が下がってしまうからだ。
そこで導入されているのが、通称『バディ制度』
正式名称は長すぎて忘れたけれど、早い話が、生徒が二人ずつペアになり〝スタディバディ〟として、一年間を共に過ごすことになっていた。
とにかく互いの成績を維持・向上させるのが目的なのだから、成績の良い生徒と、伸び悩んでいる生徒がペアになるのが常だ。
そして、今日。
入学式以来一ヶ月近くの観察期間を経て、バディが発表された。
配られたプリントを見て、僕は呼吸を止める。
制度の原則にのっとれば決してそこにあるはずのない人物の名が、僕の隣に記されていた。
『神崎理人』
その頃には、僕が神崎理人を嫌っていることは、彼の名前と同じくらい校内に知れ渡っていて、僕の前で彼の名前を出すことは『暗黙の了解のタブー』とされているほどだった。
乱れた空気に気付いているのかいないのか、担任の教師は決まり文句の挨拶を残して教室を出ていく。
すると、小さな影が僕の机の前に立った。
「西園寺くん」
「……」
「明日からよろしく!」
差し出されたのは、小さな手。
よく見ると、親指と小指の付け根がマメだらけだ。
苦労も努力も知らない僕のものとは、何もかも違うその手。
見ていたら、なんだかすごくイライラしてきた。
「よろしくってなに? 家庭教師なら間に合ってるんだけど」
「えっ……」
「それとも、恋愛の極意でも説くつもり?」
「いたっ……!」
振り払われた左手を守るように右手で覆い、神崎理人は目を見開いた。
そこに映し出されていたのは、純粋な驚愕。
まるで、僕に拒否される理由なんて皆目見当がつかないと言っているようだ。
ザラザラしていた心の中が、ますます毛羽立っていく。
「一目惚れでもしたわけ? 絆創膏一枚で? いくらなんでも安すぎだろ」
「……」
「バッカじゃないの?」
辺りが、シン……と静まり返った。
神崎は、両手を握りしめたまま固まっている。
その時僕は、愚かにもまだ『してやったり』なんて思っていた。
言い返せるものなら、言い返してみろ。
心の中で挑発しながら、すぐにでも訪れるだろう勝利の瞬間を今か今かと待っていた。
やがて――
「うん、バカだよ」
……は?
「でも、好きってそんなものだろ?」
神崎理人は、ひどく穏やかな声で僕を諭した。
まるで、それが彼のバディとしての最初の〝教え〟だと言うように。
「……」
何も言えない僕を残したまま、彼はあっさりと背を向けた。
張り詰めた空気の中を、小さな後ろ姿が堂々と横切っていく。
深緑色の背中は、真っ直ぐに伸びている。
僕は、ようやく悟った。
そもそも、彼と同じ土俵にすら立てていなかったのだ――と。
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