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4:微笑の女神と後継者
「牧 先生、宿題集めてきました」
数学科準備室に入ると、四角いシルエットが僕を振り返った。
「おう、ありがとな。その辺に置いといて」
「その辺って……」
見渡しても室内は山積みの本に埋め尽くされていて、残っているのは、デスクに続いていく一本道だけ。
「あー……っと、ほい」
僕の困惑を悟ったのか、先生はデスクの端に積んであったプリントをガサーッと一気にかき集めた。
そうして生まれた四角い空間を指で示すと、両手で抱き込んでいた紙の束を、別の山の上に乱暴に落としてしまう。
「ここ、使って」
「はあ……」
牧先生は、僕たち特進Aクラスの担任教師。
担当教科は数学で、その華々しい経歴はいかにも大成の教師らしい。
東大を卒業したその足で米国に留学し、数年後には博士号を取得。
あちこちの企業からあったに違いない熱烈なオファーを蹴ってまで教職を選んだに違いないのだから、情熱に溢れた熱血教師……かと思いきや、実際はこんな風にガサツだ。
服装だってかろうじてスーツではあるけれど、ボタンはいつも開けっぱなしだし、シャツはなんだかヨレヨレ。
それでも授業は無駄がなくて分かりやすいし、生徒に媚びるような教師よりはよほど人気があった。
「西園寺」
宿題を届けるミッションを無事に果たし、帰ろうとしたところで僕は足を止めた。
先生の声は楽しそうに弾んでいるのに、振り返った先には四角い背中しかない。
「最近どうだ?」
「なにがですか」
「神崎とは上手くやってるのか」
思わず、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……わざとですか?」
「ん?」
ようやく、先生がこっちを見た。
どんな顔の僕を見たのかは分からないけれど、一瞬驚いたように強張った先生の表情が、すぐに生ぬるい笑顔に変わる。
「神崎は、西園寺がバディで嬉しいって言ってたぞ」
「……」
「いろいろ教えてやれよ」
教える?
僕が?
特待生のあいつに?
一体なにを?
あの後も、神崎は何事もなかったかのように僕に接していた。
彼は相変わらず弓道部の練習と、二週間後に迫った体育祭の準備に忙しくて、この一ヶ月で〝バディ〟と呼べるような行動と言えば、化学の実験レポートを一緒に書いたくらいだけど、神崎は決して僕を無視したり、冷たくあしらったりするようなことはしなかった。
反面、彼以外の生徒たちは、僕に対する態度を変えた。
まるで腫れ物に触るように距離を取り、必要以上の言葉をかけてくれなくなった。
中学三年間かけて築いた仲間との繋がりが、たったの一瞬で断ち切れてしまったのだ。
今思えばそれは完全に身から出た錆だったのに、くだらないプライドに邪魔されたまま、未だにそのことを認められずにいた。
そして僕は、そのことを、一生、後悔することになる。
風呂に向かう準備をしていると、控えめなノックの音がした。
扉を開けると、そこにいたのはまだ制服に身を包んだままの神崎理人。
思わず振り返って壁の時計を見ると、もう八時を回っている。
「……何か用?」
「桜木会長いる?」
「神崎くん?」
呼びかける前に背後に立ったのは、桜木先輩。
僕のルームメイトで、三年生で、生徒会長だ。
彼の名も、大成の生徒ならきっと知らない者はいない。
中学入学以来誰にも学年首位の座を渡さず、高校に入ってからは一年生の時から生徒会長を務め、今年で三年目。
物腰は柔らかく、いつも浮かんでいる淡い笑みはまるで女神のよう……なんて言われているけれど、一緒に生活してみればわかる。
桜木先輩の目は、いつどんな時でも、全然笑ってない。
誰も逆らえない男――冗談混じりに囁かれるその異名も、きっと伊達じゃないんだと思う。
「どうしたの? もしかして、今帰ってきたところ?」
「あ、いえ……ちょっと自習室で、いろいろ……」
「テスト勉強?」
「あー……はい」
困ったように肩をすくめて応え、神崎は持っていた茶封筒を桜木先輩に差し出した。
「遅くなってごめんなさい。体育祭のプログラム、上がりました」
「全然遅くなんかないよ。ありがとう」
桜木先輩の細い指が、神崎の髪を一房すくい上げる。
「ご飯は?」
「食べました」
なでなで。
「野菜もちゃんと食べた?」
「はい!」
なでなでなで。
「椎茸も?」
「……」
「ひとつは?」
「た、食べました!」
なでなでなでなで。
神崎の黒い髪が複雑に絡まりあったところで、桜木先輩はようやく手を引っ込めた。
「いろいろ頼んじゃってるけど、大丈夫? 大変になったら言うんだよ」
「はい!」
神崎は、スキップするような足取りで去っていった。
まだ一年生の彼は、生徒会に所属はしていても役職はついてない。
言わば、見習いの雑用係。
それでも桜木先輩自らがこうして目をかける後輩は彼が初めてで、後継者として育てているのだろうというのがもっぱらの噂だった。
「あ、神崎くんのノートが混ざってる」
「え……」
「西園寺くん、届けてあげてくれないかな?」
この人も、なにを考えているのか分からない。
どこまで知っているのか。
どこまで分かっているのか。
従いたくはない……けれど、〝誰も逆らえない男〟に対する僕の返事は決まっていた。
「……分かりました」
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