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5:囁く悪魔と消えた天使
神崎のノートはなんの変哲もないB5サイズのノートだったけど、背表紙が薄くなりほつれた糸がはみ出るほど使い込まれていた。
ペラペラとページをめくると、書き込みの最後は今日授業でやったばかりの内容だ。
きっと自習室で復習していたんだろう。
体育祭が目前に迫りみんな浮き足立っているが、祭りが終わってしまえばすぐに中間考査が始まる。
定期考査はもちろん、授業中に抜きうちで行われる小テストや作文、書道の作品まで、この一年の成績は、すべて来年のクラス分けに繋がる。
いくら特待生だと言っても神崎だって例外ではなく、成績が落ちればクラスだって落ちていくのだ。
彼ならきっと、何事もそつなくこなしてしまうんだろうけど――ん?
今日の分と思われるページを眺めていたら、神崎の筆跡とは違う誰かの書き込みがあちこちにあった。
なんだ、誰かと一緒に勉強してたのか。
バディとしかテスト勉強してはならない――なんて規制はないんだから、彼が誰と勉強しようが関係ない。
それなのに、どうしてだろう。
モヤモヤする。
僕が神崎の背中に追いついたのは、ちょうど彼が自室の扉を開けたところだった。
寮の部屋は、角部屋だとか最上階だとか多少の良し悪しはあるにしても、基本的な間取りは全部屋同じ。
8畳の部屋の右左にデスクとベッド、それに本棚がひとつずつ設置されていて、トイレと簡易シャワー、クローゼットは二人で共用だ。
天井の中心にはレールがあり、カーテンを付ければ部屋を二つに分けることもできる。
すっきりと整理されている様子から、すぐに右側が神崎のスペースだと分かった。
「ただいま」
「おう、神崎」
「おけーり」
「まだ制服なのかよ? 真面目だな〜」
「さすが新入生総代の特待生」
ルームメイトに続き、床に円になって座っていた二年生たちがニヤニヤと笑う。
浅い会釈で応えた神崎は、ブレザーから腕を引き抜いたところで動きを止めた。
「なに……してるんですか」
神崎の声には、住人以外の人物が自分の居住空間にいるという不快感よりも、遥かに濃い不信感が含まれていた。
上級生の円陣の中心には、化学式や英単語がメモされた多数の紙切れが散乱している。
神崎はなにか恐ろしいものを見つけてしまったかのように慄いていたけれど、またか――それが、僕の正直な感想。
神崎にひとつだけ同情するとすれば、彼のルームメイト運だ。
新入生が上級生と同室になるのは昔からの慣習でもあるけれど、特に新入生にはその相手を選ぶことはできない。
だから僕のように生徒会長と同室になることもあれば、神崎のようにハズレを引いてしまうこともある。
たとえばルームメイトが〝親が金に物言わせてねじ込んだ〟だけのクズだとか。
彼らはかろうじて『特進A』の次の『A』クラスに在籍しているけれど、それはたゆまぬ努力の賜物だ。
もちろん、間違った方向の努力――だけれど。
見て見ぬフリをしておけばいいのに、神崎は不正行為に愚かにも目を止めてしまった。
そういうところも、彼らしいと言ってしまえばそうなんだと思う。
でも今回ばかりは、その実直さが完全に仇となってしまった。
「それ、カンニングペーパー……ですか」
声変わりを終えたばかりの不安定な音が、珍しく地を這う。
集まっていた男たちの眉が、ぎゅうっと寄った。
「お前……このことチクったらどうなるかわかってるよな?」
立ち上がり、見下ろされると、すっぽり影に覆われてしまうほどの体格差。
並の人間なら、怯んでいたに違いない。
でも神崎は、視線を逸らさない。
「こんなことして点数稼いで嬉しいんですか? 桜木会長に報告します」
『毅然』という言葉は、きっと彼のためにあるのだろう。
ルームメイトの渾身の脅迫をピシャリと跳ね除け、神崎はギリギリと奥歯を食いしばる彼らにあっさりと背を向けた。
そのまま遠ざかろうとした細い肩を、凸凹した手が鷲掴みする。
「いたっ! な、何っ……?」
神崎は、いとも簡単にベッドに押し倒された。
硬いマットレスに押しつけられ、きちんと整えられていたシーツが皺くちゃになる。
起き上がろうとした小さな身体を、男が馬乗りになって制した。
「先、輩?」
「お前さ、よく見ると下手な女より綺麗な顔してるよな」
「はっ……?」
「身体も細いし……なあ?」
舌なめずりした男の手が、神崎の股間をいやらしく撫で上げる。
ヒュッ……と空気の鳴く音がして、神崎の顔から血の気が引いた。
「やっ……いやっ、嫌だ!」
「チッ、暴れんじゃねーよ。お前ら、押さえろ」
「またかよ……たくっ」
「へーいへい」
「後で俺らにもヤらせろよな」
「わーってるって」
男たちの腕が、神崎を組み敷いた。
たくさんの濁った瞳に捕えられ、それでも彼は諦めない。
神崎が全身を使って暴れるたびに、ベッドがギシギシと不気味な音を立てる。
「離せっ……離せよぉ……っ」
「あ、ちょ、いって! あーもう、めんどくせーな!」
「神崎くんさぁ、大人しくしてた方が痛くなく済むぜ?」
「そうそう。気持ちよくしてやるって言ってんだからさあ」
「や、やだ、嫌だ! やめ――」
ドクンッ……と心臓が揺れた。
神崎理人は、僕を見ていた。
閉じきっていない扉のわずかな隙間から中を覗いていた僕の存在を、彼はしっかりと捉えていた。
でも、それだけだ。
いつもならキラキラと輝いているアーモンド・アイが恐怖で歪み、いつもならスルスルと言の葉を紡ぎ出す唇は、小刻みに震えたまま音を成さない。
天使と悪魔を呼び出して議論させるまでもなかった。
いや、もしかしたら天使と悪魔はいたのかもしれないけど、その時の僕は完全に悪魔に支配されていた。
負けず嫌いの意地と、プライドと、嫉妬。
それらの感情に呑まれていた僕は、神崎が選ばなかった〝見て見ぬふり〟という行動をいとも容易に実行してみせた。
食事と風呂に寮生たちが出払っている今、廊下には僕しかいない。
少しくらい痛い目に遭うべきなんだ。
世の中、綺麗事だけで生きているわけなんかないんだから。
そのことを、彼は学ぶべきだ。
でなければ、後の人生で苦労するのは神崎自身。
そうだ。
これは、僕から彼への〝バディ〟としての教え。
それに学生の今ならまだ、きっと傷も浅く済むはず。
だからもしもこのまま背を向けたとしても、僕はなにも――
「お? 西園寺じゃん」
間延びした声が、僕の呼吸を止めた。
「木瀬先輩……!」
振り返ると、風呂上がりの木瀬先輩がいた。
タオルでガシガシと髪をかき混ぜながら、気怠げに近寄ってくる。
「なにやってんの? こんなとこで」
「なに、って……」
僕は、ハッとした。
部屋から漏れ出ていた音が、ピタリと止んでいる。
「せ、先輩こそ、なにを……」
「届けに来たんだよ、神崎くんの忘れ物」
木瀬先輩は、デニム生地のシンプルなペンケースをヒラヒラさせた。
「自習室の机の上に残ってたから、探してんじゃねえかって……」
『……っん……って……』
「お、よかった。まだ起きてんな」
「あっ……」
「おーい、神崎くーん。忘れもんだよー」
「せ、先輩! 今はっ――」
僕が手を伸ばしたのと、ガタンと大きな音が聞こえたのは同時だった。
『……って!』
「……!」
『西園寺くんたすけてっ……!』
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