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6:ホットミルクと天使の涙
木瀬先輩が動きを止めたのは、一瞬だった。
バンッ。
煩雑な音を立てて開いた扉は、壁に跳ね返って木瀬先輩の肩を勢いよくぶん殴った。
それでも先輩はよろめくことなく、視線はただ一点を鋭く射抜いている。
「……なにやってんだ、てめえら」
木瀬先輩の声は、これまで聞いたどの声よりも低く、地鳴りのように振動していた。
まるで蜘蛛の子を蹴散らすように集団が散り、中心に残されたのは放心状態でベッドに仰向けになっている神崎理人。
アーモンド・アイは大きく見開かれ、小刻みに繰り返されるふうふうという呼吸音と、歯と歯がぶつかり合うガチガチという音が不規則に重なり合う。
「な、なにって……あ、遊んでただけですよ! なあ!?」
「遊び? これが……?」
「うぐっ!」
いくら後輩だとは言え、それほどの体格差があるわけでもない。
むしろガタイの良さでは負けているくらいでは――そんな神崎のルームメイトの胸ぐらを鷲掴みすると、木瀬先輩は腕一本の力だけで彼の身体を浮かせてしまった。
「ご、ごめんなさっ……」
「遅い」
「ひぃ……っ」
「ストップ」
振り上げられた木瀬先輩の拳を止めたのは、僕のルームメイトだった。
「桜木……?」
「手は出しちゃダメだよ、木瀬。気持ちは分かるけどね」
背後から掴んだ木瀬先輩の手首を解放し、桜木先輩はゆっくりと室内を見渡した。
そして、床にへたりこんでいた二年生たちの前に一歩歩み出る。
先輩の足下でカサリと音を立てたのは、彼らの歪んだ努力の証。
「さ、桜木会長……!」
その時、彼らが桜木先輩のどんな表情を見上げていたのか、僕にはわからない。
でも、彼が〝誰も逆らえない男〟の本髄を発揮していることだけはよく分かった。
「ここは僕に任せて。木瀬……と西園寺くんは、神崎くんをお願い」
「……わかった」
ドスドスと足音で不満を露わにしながら、木瀬先輩が部屋を横切る。
ベッドに沈み込んだままの神崎を覗き込み、細い肩にそっと手を添えた。
「神崎くん」
「……」
「神崎」
「……っ」
「大丈夫か?」
「きせ、せんぱい……?」
「うん。立てる?」
「……」
神崎は、機械仕掛けのおもちゃのようにコクンと頷き、ゆっくりと上半身を起こした。
でも起き上がってもシャツの乱れを直そうともせず、肩を激しく上下させながら浅い呼吸を繰り返すだけ。
焦点の合わない視線が、曖昧なままふわふわと辺りを彷徨っている。
そんな神崎の視界に無理やり入り込むように身を屈め、木瀬先輩は両腕を広げた。
「おいで、ここから出よう」
「え……?」
「ほら、掴まって」
おずおずと伸びてきた腕を自分の首に巻き付け、木瀬先輩は神崎を抱き上げた。
まるで父親が子供にそうするように大事そうに抱えたまま、さっさと部屋を出て行こうとする。
咄嗟に身体をよじって道を譲ると、木瀬先輩の眉間に深い皺が刻まれた。
「西園寺」
「っ」
「お前もこっち」
「え……あ、は、はい」
大股でずんずん遠ざかっていく木瀬先輩の背中を、小走りに追いかける。
てっきり医務室に向かうのかと思ったら、たどり着いたのは木瀬先輩の部屋だった。
同室の二年生は、風呂にでも行っているんだろう。
中には、誰もいない。
「ちょっと待ってな」
木瀬先輩は神崎を左側のベッドに座らせると、俯いたままの頭のてっぺんをぽんぽんと優しく撫でた。
そして部屋の隅っこにあった小さな冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、マグカップに注ぐ。
手早くラップをし、本棚の上に置かれていた電子レンジに入れると、ピピッという音とともに回転し始めた。
しばらくして機械の作動音が止むと、木瀬先輩はほかほかと湯気を上げるそれを神崎に差し出した。
「はい」
「……」
「ホットミルク」
「……」
「飲みな、落ち着くから」
「……」
神崎は、動かない。
いや、違う。
動けないんだ。
身体の震えは治まっているものの、神崎の視線はまだ虚を見つめたままだ。
いつも真っ直ぐに伸びている背中が丸まり、幼い身体がさらに小さくなってしまったように見える。
「……ふぅ」
深いため息を吐き、木瀬先輩はマグカップをデスクの上にそっと置いた。
「神崎くん」
「……」
「ちょっとごめんな」
マットレスのスプリングが、激しく軋んだ。
木瀬先輩に押し倒され、感情のなかった神崎のアーモンド・アイが激しく歪む。
「やっ……」
「大丈夫だ」
「やだぁ! はなして……!」
「もう、大丈夫だよ」
今、彼を抱きしめているのは、憧れの木瀬先輩。
それなのに、彼を見上げる神崎の目は、恐怖に支配されていた。
まるで、先輩の姿など目に入っていないかのように。
必死に逃れようとする神崎の小さな身体を、木瀬先輩は強く抱きしめたまま離さない。
嫌だ嫌だと激しくふり乱れる黒い髪を、木瀬先輩の大きな手がゆっくりと梳いた。
癒すように……労るように。
「大丈夫」
「はあっ……はあっ……」
「悪い奴らは、みんな追い払ったから」
「はあっ……は、あっ……」
「大丈夫……大丈夫……」
「はっ……はぁ……っ」
荒かった呼吸が徐々に静かになっていき、軋んでいたマットレスが静かになる。
やがて神崎の細い指先が、木瀬先輩のスウェットをぎゅうっと掴んだ。
「……う」
「怖かったな」
「うう……」
「もう大丈夫だ」
「っ……うわぁ……んッ」
堰を切ったように溢れ出した神崎の悲鳴が、僕の耳に深く突き刺さる。
それは、あの入学式の日に中庭で聞いた泣き声とはまったく違った。
絶え間なく溢れる嗚咽が、僕の心を激しく揺さぶる。
「大丈夫」
「うっ……ひっ……く……」
「大丈夫だ……」
「……っく……う……く……ッ」
ああ。
僕は。
僕は、なんてことを――
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