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8:悪魔の勇気と隠した思い

 無人の自室でシャワーを浴び、髪を乾かし、次の日の時間割を揃え、歯を磨いて、僕はベッドに入った。  きっと眠れないまま夜明けを見ることになるんだろうな……なんてカッコつけていたのに、いつの間にか眠りに落ちていて、朝、目覚まし時計の音で目が覚めると、桜木先輩の姿もベッドの中に戻っていた。  桜木先輩はいつもよりちょっとだけ眠たそうにしながらも、ただ「おはよう」と笑い、伸びをしながら、いつものようにシャワーに向かった。  僕は、顔を洗い、歯を磨き、手早く髪を整えると、ジャージに着替えて部屋を出た。  ドキドキしながら食堂に行くと、トレイを持った順番待ちの列の中に、いつものように岩清水先輩にかいがいしく世話される寝ぼけ眼の神崎がいた。  相変わらずジャージが裏返しで、クラスメイトに頭をポンポンされて、通りすがりの木瀬先輩に「今日のヨーグルトは、お前の苦手な無糖だぜ。イヒヒ」なんて揶揄われて顔を真っ赤に染めていて、でもやっぱり、僕のことなんて彼の眼中にはなかった。  いつもの風景がそこにあった。  昨夜、宿直室に呼ばれた件のルームメイト(とその愉快な仲間たち)と入れ替わりに、神崎は自室に戻ったらしい。  もちろん、彼らは二度と戻ってくることはなかったし、何なら数日後、桜木先輩の予言通りに、全員『自主退学』を選択し、この学校を去っていった。  僕は正直、彼らがカンニングするほど執着していた〝大成高校生〟という立場を自ら手放してしまったことが意外だったけれど、そのことを悲しむ者は誰もいなかった。  常習犯に違いないと前から囁かれていた彼らの停学処分にはみんなが納得したし、もうひとつの要因は、あえて知らせる必要のないことだ。  もしかしたら、桜木先輩は彼らの不正行為の証拠を掴むチャンスを狙っていたのかもしれない。  だからあの夜、絶妙なタイミングで颯爽と現れ、制裁を加えようとした木瀬先輩を、悪者にされる前に守った。  でもきっと、神崎があんな目に遭わされるなんて、桜木先輩も予想していなかったのかもしれない。  だから……  ――それから、『ごめんね』って。  桜木先輩から『伝えて』と預かった言葉を、僕はずっと神崎に伝えられずにいた。  彼は、相変わらず部活と生徒会に忙しくて……いや、違う。  神崎はきっと、僕が声をかければ、いつどこでだって、何をしていたって、ちゃんと話を聞いてくれただろう。  ただ、僕が勇気を出せなかっただけだ。  木々の葉っぱが次々と色を変え、空気はどんどん爽やかになっていくのに、僕の心はどんよりと曇っていた。  気がつけば、体育祭が終わり、夏の制服が解禁になり、一年生にとっては高校生になって初めての中間考査の範囲が発表され、校内には、学生らしい真面目な空気が充満していた。  バディたちがペアになって勉強する姿が当たり前になり、その空気は寮の談話室にも広がっていた。  新入生総代の神崎も例外ではなく、彼は常に自習室にいた。  入り口からそっと覗き込むと、一番奥のテーブルにその小さなシルエットがあった。  珍しく、眉間に皺を寄せてものすごく険しい顔をしている。  以前、「暗記はあまり得意ではない」――それでも、人並み以上にはできるんだろうけど――と、話しているのを聞いたことがある。  特にカタカナの言葉を覚えるのが苦手らしく、世界史の勉強にはかなり苦戦しているらしい。  それにしても、妙だ。  他の机は生徒たちで埋まっているのに、六人掛けのテーブルにいる神崎の周りには誰もいない。  まあ、しょうがないか。  なにせ、彼はあの〝神崎理人〟だ。  一緒に勉強しようと言いたくて、でも、みんな言い出せないんだろう。  誘えばきっと、彼は笑顔で頷いたに違いないのに。  僕は、ゆっくりとそのテーブルに近づいた。  座っていいか――なんて、わざわざ了解をとるのもなんだか悔しくて、わざと大きな音を鳴らしながら向かい側の椅子を引く。 「西園寺くん……!」  図書委員の生徒に「シーッ」と指を立ててたしなめられ、一度はニョキッと伸びた神崎の身体が一気に萎んだ。  周囲にペコペコと頭を下げてから、顔を僕の方に寄せて小声で囁く。 「どうしたの、西園寺くん」 「……それ、テスト勉強?」 「えっ、あ、うん」 「ふーん……やるなら、声かけろよな」 「えっ……」 「そこ、間違ってる」 「え、あ! ほんとだ……」  神崎はふにゃっと笑うと、見覚えのあるデニム生地のペンケースから消しゴムを取り出した。  ゴシゴシと力任せに消しゴムを動かしたせいで、ノートのページがグチャグチャになっている。  いや、手で押さえろよ。  心の中で突っ込みつつ、消しゴムのカスに「ふうふう」と息を吹きかけている神崎を見た。  唇を突き出して、顔を赤くして、なんだかタコみたいだ。  神崎は、子どもだ。  もちろん、僕だって、まだ十五歳。  世間一般から見れば十分子どもなのに、神崎を見ていると、自分がひどく大人びているような気がしてくる。 「あのさ、こっちに飛ばさないで」 「あ、ご、ごめん!」  僕が数学の教科書を取り出すと、神崎は間抜けな顔になった。  意図を計ろうとするように、ノートを広げる僕の動作を瞬きもせずに見つめてくる。 「……なに?」 「え!? いや、あ、あの……」 「……」 「西園寺くんも、テスト勉強……?」 「そうだけど、なに? 迷惑?」 「ま、まさか、違うよ! でも……」 「でも?」 「……」 「だから、なに?」 「……ううん、なんでもない」  神崎は、それ以上なにも言わなかった。  なぜ、も。  どうして、も。  そして、僕も何も言わなかった。  紙が擦れる音と、誰かの咳払いや囁き声が時々混じる静かな空気の中で、向かい合って勉強する――ただそれだけなのに、なんでだろう。  すごく心地良かった。

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