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9:絆され悪魔と天使の笑顔
神崎の腹の虫が盛大に騒いだのをきっかけに、僕たちは自習室を後にした。
時計の針は、長い方も短い方も、6に重なっている。
今食堂に行けば、炊きたてのご飯にありつけるよ――神崎は、鼻の穴を膨らませながら僕を導いた。
きっと周りの寮生たちは、僕と神崎が一緒にやって来たことに心底慄いたことだろう。
四人がけのテーブルに二人で座っていたのに、僕たちの周りには誰も近づいてこなかった。
でも、今夜はそれでいいと思った。
ほかほかの湯気の向こう側で「はふはふ……」と白米を必死に頬張る神崎を見ているのは飽きなかったし、うっかりつられて、僕もはふはふしてしまった。
神崎が時々思い出したかのように食に関するうんちくを披露して、僕はおざなりに返事をして、膨らんだ神崎の顔がハムスターみたいで笑って、彼は笑うなと怒って、でもそんなことすぐに忘れて、僕と一緒にいられて嬉しいと笑って、僕はなにも言えなくなって、そしたらまた神崎の腹が鳴って、僕は「食いしん坊かよ」と呆れた。
二人してギャーギャー騒いでいたせいで、通りすがりの桜木先輩や木瀬先輩に生ぬるい視線をこれでもかと送られたけれど、全然気にならなかった。
それに、寮の食事をこんなにも美味しいと感じたのは初めてだった。
**
食堂から寮への帰り道は、順番的に僕の部屋が先にやってくる。
電気が消えているところを見ると、桜木先輩はまた生徒会室に戻ったんだろう。
「じゃ、おやすみ。また明日」
そう言って神崎に背を向ける――と、背中の生地がクンッと突っ張った。
振り返ると、今朝下ろしたばかりの夏服が、そこだけしわくちゃになっている。
「……なに?」
「あ、ご、ごめん!」
謝りながらも、神崎はシャツを摘まんだ指を離そうとしない。
「だから、何?」
「あ、え、えっと……」
僕を見上げる神崎の視線が、激しく右往左往した。
眉毛は不格好な八の字を描き、上唇と下唇がピタッとくっついている。
潤んだアーモンド・アイは、まるで捨てられた子犬のように僕を見つめ――ああ、そういうこと。
「怖いの?」
「えっ……」
神崎は、金魚みたいに口をパクパクさせ、やがて諦めたように短い息を吐くと、僕のシャツを掴む指に、ギュウ……と力を込めた。
「うん……怖い」
まるで叱られるのを待つ子供のように、神崎は小さな身体をさらにコンパクトに縮こまらせている。
これまでは見る度にイライラしていた光景なのに、なんだかおかしい。
苛立つどころか、心の奥の方がムズムズして、かゆくなってきた。
油断すると、うっかり頭を撫でてしまいそうだ。
もしかして、これが〝庇護欲〟というヤツなんだろうか。
「……はあ」
なんだか気恥ずかしくて無理やりため息を吐くと、神崎はパッと手を離した。
あれ、なんでだろう。
今度は、ものすごくイライラする。
「夜、寝られない?」
「寝てる、けど……」
「途中で目が覚める?」
「……うん」
「怖い夢見る?」
「……うん」
「僕が一緒にいてやろうか」
「……うん」
「……」
「えっ!?」
「……」
「西園寺くん、俺と一緒に寝てくれるの……?」
ちょっと、言い方!
僕は咎めようとして、でも、できなかった。
期待に満ち溢れたアーモンド・アイが、キラキラと輝きながら僕を見上げてくる。
キラキラキラキラキラキラ……って、あのさあ!
「ああもう!」
「……っ」
「分かったから、ちょっとここで待ってろ!」
「さ、西園寺くん!?」
「僕が戻ってくるまで動くなよ!」
「えっ!? あ、ま、待っ……!」
渡り廊下を全力で走り抜け、階段を駆け上がり、駆け下りて、また駆け上がって、僕は生徒会室に飛び込んだ。
「桜木先輩!」
ノックもせずに現れた僕を見て、桜木先輩はギョッと目を見開いた。
でもそれはほんの一瞬で、次に広がったのは、女神の完璧な微笑み。
「誰かと思ったら、西園寺くん。珍しいね、ここに来るなんて」
「転室許可ください……!」
乱れた呼吸が整う前に言葉を紡いだせいで、うっかり切実な訴えになってしまった。
これじゃあまるで、僕自身がこうすることを望んでいるみたいじゃないか。
「これはまた突然だね」
桜木先輩は、今度は一ミリも表情を変えなかった。
底の見えない瞳で、僕をじっと見据えてくる。
「理由は?」
は?
理由?
そんなの、決まってる。
「僕は神崎のバディだから」
「……」
「眠れない彼を寝かせるのも、バディの役目ですよね? 成績……と、健康維持のために」
かわいそうだから。
心配だから。
守りたいから。
頭に浮かんだ言葉は、全部無視した。
絆されてしまったという自覚はある。
でも、認めるわけにはいかなかった。
この期に及んで……と自分でも呆れるけれど、こればっかりはしょうがない。
僕はどうしたって、負けず嫌いなのだ。
「……ふふ」
桜木先輩は、小さく笑った。
「そういうことならしょうがないね。いいよ、許可しよう」
そしてノートパソコンを開くと、目にも留まらぬ速さでキーボードをカタカタし、紙を一枚印刷し、生徒会長印を押して、あっという間に『転室許可証』を作り上げてしまった。
「神崎くんをよろしくね」
「……」
やっぱり、この人には全部お見通しなんだ。
僕が神崎に対して抱いていた気持ちも、
今、抱いている気持ちも、
神崎が、ひとりで向き合っている恐怖の正体も。
悔しい。
たった二年僕より長く生きているだけのくせに、こんなにも違うなんて。
僕だってそこそこ分かっていたと思っていたのに、この人の前ではひとたまりもない。
でも今夜だけは、桜木先輩のその〝千里眼〟に感謝しておくことにする。
「てことで、今日からここが僕の部屋だから」
「えっ……え!?」
僕の言いつけをやぶってちゃっかり自室に戻っていた神崎は、上半身を仰け反らせて僕を迎えた。
目の前にできたてほやほやの『転室許可証』をつきつけると、アーモンド・アイを白黒させている。
僕は神崎の横をすり抜けて、左側の剥き出しのマットレスにキャリーケースを乗せた。
「とりあえず今夜必要なものだけ持ってきた。残りの荷物は、明日運んでくる」
「えっ、あっ、う、うん!」
「床のこの継ぎ目からこっちは僕のテリトリーね。だから、入って来ないで」
「う、うん!」
「それから……」
「うん!」
「……まだ何も言ってない」
「あっ……ご、ごめん! 嬉しくて……」
神崎は、満面の笑顔を咲かせて見せた。
アーモンド・アイはすっかりその形を変え、つやつやの頬を思いっきり押し上げながら、薄い唇の間から、綺麗に並んだ白い歯が見える。
まるで、無垢な子ども。
こいつのこんな笑顔を見るのは、初めてかもしれない。
もしかして、僕に心を開いたということ?
まったく、どこまでお人好しなんだ。
あの夜、取り囲む上級生たちの間から、神崎は確かに僕の姿を捉えていた。
だから、僕が見て見ぬ振りをしたことだって知っているはずだ。
それなのに、僕に助けを求めて、挙げ句の果てに、心を許すなんて。
本当に、どこまでもしゃくに障るやつだ。
まあ、でも……
「ありがとう、西園寺くん!」
泣かれるよりは、ずっとマシ……かな。
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