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11:喪失と予感

 神崎が帰ってきたのは、真上にあった太陽がほんの少しだけ西に傾いた頃だった。 「ただいまー」  思いっきり油断していたところに侵入され、ベッドに腹ばいになっていた身体を慌てて起こす。  振り返って見た神崎が大きなダンボール箱を抱えていて、僕は2度驚いた。 「お、かえり」 「ん、ただいま。はー、暑かった」 「ていうか、早くない?」 「カラオケ終わったから帰ってきた。みんなゲーセン行くって言ってたし」 「え、なんで? いいじゃん、ゲーセン」 「興味ないもん」  しれっと言いのけて、神崎は「うっ」と呻きながら、持っていた箱を床に落とした。  思わず「もしかして、僕に気を遣って早く帰ってきたの?」なんて口にしそうになって、慌てて唾を飲み込む。  もしそれが本当なら彼は躊躇なく頷いただろうし、万が一そんな風に肯定されたら、今度は僕の方がどうしたらいいのか分からなくなってしまう。  ざわめいた感情を悟られたくなくて、わざと音を立てて雑誌を閉じてから僕はベッドから下りた。 「その箱なに? 僕宛?」 「だって。一緒に置いてあったから、ついでに持ってきた」  リュックサックを下ろし、シャツをパタパタさせてから、神崎は大きな茶封筒を持ち上げる。 「家から?」 「うん。西園寺くんのは?」  四方八方にみっちりと貼られたガムテープを剥がし、僕はダンボール箱を逆さまにした。  バサバサッ……と煩雑な音を立てながら、次から次へと本が落ちてくる。  あっという間に生まれた本の山をポカンと見つめた後、神崎はアーモンド・アイをキラキラと輝かせた。 「す……っご! これ、全部洋書!?」 「みたいだね」 「なんだ、どうりで重いと思った……」 「無理して運んで来なくても、僕を呼びに来ればよかったじゃん」 「俺が運びます! って先生に言っちゃったもん。それに別に重くなかったし!」 「……」 「全然!」 「……」  なんだそれ?  ついさっき「重かった」ってぼやいてたくせに。  ルームメイトになって分かったことが、もうひとつ。  神崎は、見かけによらず頑固者だ。  そして実は、周りとの体格差をけっこう気にしてたりする。 「うわ、日本語がまったくない」  床の境界線を越えてあぶれた本を拾い上げ、神崎はペラペラとめくった。  いつもより何倍も大きくなったふたつの瞳からは、驚きと一緒に、隠しきれない好奇心がダダ漏れだ。 「興味あるなら読めば?」 「えっ、いいの!?」 「いいよ、別に。僕には関係ないし」 「ありがとう!」  言うなり、神崎は早速床に座り込んだ。  大切そうに本の表紙をめくり、でも、すぐに手を止める。  覗き込んだページには羅列されていた文字を見て、僕は笑った。 「バーカ」 「へっ?」 「それは英語じゃないよ」  ドイツ語の辞書を差し出すと、神崎は薄い唇で綺麗なへの字を描いた。  でもすぐに真剣な表情になって、本と辞書のページを交互に見ながら、口の中でもごもご言い始める。  英語以外の外国語の授業が始まるのは、二年生になってからだ。  ドイツ語の〝ド〟の字も、彼は知らないはずなのに。 「……お前さ」 「ん?」 「なんで勉強すんの?」 「え……」 「そんなに親を喜ばせて楽しい?」 「親……?」  なにを言っているのかわからない――瞬くアーモンド・アイは、純粋な疑問を表していた。  真っ直ぐに見上げられて、また気持ちが乱れる。  だって、意味が分からないじゃないか。  勉強が好きな人種を知らないわけじゃないけれど、『良い成績を取りたい』とか、『将来のため』とか、彼らにも必ず目的はあった。  でも、神崎からはそれがまったく感じられない。  この僕より良い点数を取っておきながらちっとも喜ばないし、自慢だってしないし、それどころか、ライバルたちの健闘を称えたりするなんて……スポーツじゃあるまいし、そんなの、僕にはまったく理解できない。  だから、教えてほしい。  僕が倒さなきゃいけないのは、一体どんな人間なのか。 「そりゃあ成績が良ければ父さんも母さんも喜んでくれるけど、それは別に勉強に限ったことじゃないし……」  神崎は、うーん……と唸ったきり、考えこんでしまう。  僕は、頭の隅でじわじわと存在感を増していたひとつの可能性を、恐る恐る口にした。 「……まさか、楽しいからとか言わないよね?」 「楽しい……?」 「……」 「あー、それだ! 勉強は楽しい! いろんな仕組みとか、現象が引き起こされる理由とか、知らなかったことが知ってることに変わってくのがものすごく楽しい!」 「はあ……?」  腹の底の方から声を発した僕の斜め下で、神崎は幼い子どものように足をバタバタさせた。  立ち上がった勢いのまま、家から届いたという茶封筒をビリビリと破り始める。  取り出されたのは、一冊の本。 「これ!」  咄嗟に手を出して受け取ったのは……写真集?  ペラペラさせると、次々と視界に現れるのは、青空をバックにした白い雲の映像ばかり。 「『雲の辞典』って……なに、これ?」 「この間授業中に外見てた時にさ、すっごく変な形の雲を見つけたんだ。でも、名前が思い出せなくて……そういえば、子どもの時に買ってもらったこの本、家に置いてきたままだったなって思い出して、だから、電話して送ってもらった!」 「雲の名前なんて調べてどうすんの?」 「どうもしないけど?」 「は……?」 「そうか、あの雲の名前はこういう名前だったんだな……って思って、また見られるといいなって、そう思うだけ!」 「はあ? ますます、意味わかんないんだけど」 「なんで? 勉強ってそんなものだろ」 「……」  僕は、いよいよ本気で呆れた。  彼と僕とは、根本的に生き方が違うのだ。  生きている世界も、  なにもかもが、僕とは違う。  ――好きってそんなものだろ?  あの時も、そうだった。  神崎は、嘘も、偽りもない思いを、淡々と声に乗せた。  ただそれだけだったのに、  僕は勝手に見透かされたような気持ちになって、  勝手にいじけた。  彼の言葉は、いつだって本物だ。  僕がどれだけ虚勢を張ってみせたって、  必死に繕ってみせたって、  本物には敵わない。  僕の勝率は、  いつだってゼロ。 「はは……」  ああ。  ダメだ。  笑えてくる。  負けず嫌いを貫けるのも、ここまでかもしれない。  完全なる、戦意喪失。  だって、もう認めないわけにはいかない。  最初から、僕が敵う相手なんかじゃなかった。  それでも、善戦した方なんじゃないだろうか?  思わず、そんな風に自惚れてしまいたくなる。  相手が神崎なら、許してもらえるかもしれない。  たとえ二番手から這い上がれなくても、  見上げる相手がこの〝神崎理人〟なら、  きっと、あの人も―― 「西園寺くん……?」 「なんでもない。で、その雲ってどれだったの」 「んーとね……あ、これ!」  その時の僕は、まだ知らなかった。  自分の考えの甘さを、身をもって思い知ることになることを。

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