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「好き」
そうして、二週間ほどが過ぎた。
「はぁ……」
自販機の取り出し口にごろんと転がり出た缶コーヒーを見つめ、智也は肩を落とす。
午後八時。上山動物園従業員休憩室は、人影もまばらだ。朝が早い仕事柄、この時刻になればほとんどの従業員は退勤している。智也は明日が休日なので、食事の作り置きをしたり、ついでに雑用を片付けたりしているうちに遅くなってしまった。
智也は缶コーヒーを取り出し、手近の椅子に力なく腰かけた。
(一息ついたら帰ろう。明後日からまた頑張って、次こそ……)
今日返ってきた検査結果でも、アルバの妊娠は確認されなかった。
(でも、頑張るって言ってもな。これ以上どうすれば)
仲良しアピールでホルモン推進作戦は、既に行き詰まっていた。台本のネタが尽きたのだ。元々、智也の経験には仲良しパターンのストックが少ないので、それも当然と言える。
智也が気落ちする心をなだめるようにコーヒーを飲んでいると、数人の飼育員が賑やかに休憩室へ入ってきた。中の一人が智也に気づいて声をかける。同期の吉野だ。
「よう塚田、お疲れさん!」
「あ、どうも……」
「どう、例の珍獣は?」
「あ、いえ……。その、まだ」
「え? まだかぁ」
吉野は大きな声で言った。
「しっかり頑張ってくれよな!」
吉野は大げさな身振りで肩をばしばしと叩いてくる。親しいわけでもないのにパーソナルスペースが近い。
言うまでもなく、智也はこの手の人が苦手だ。
「は、はぁ……」
「おいおい」
智也の生返事に、吉野は呆れ顔をした。
「なんか頼りないなあ。せっかく大抜擢されたんだから、頑張れよ!」
その語調に些か棘があるのを、智也は感じ取った。
(え……。もしかして僕が珍獣の飼育員に選ばれたのを、心よく思ってないのかな?)
そのうち部屋の隅にいた別のグループが出てゆき、智也たちだけが残ってしまった。広い休憩室が、妙に静まり返る。
(うう。いづらい)
気まずい空気を破る、何かがあれば――。智也がそんなことを考えた、その時だ。自販機から缶が転がり出る、大きな音が響いた。全員が反射的に、入り口の自販機へ目を向ける。
かがみ込んで飲み物を取り出すその背中は、涼だ。
「よっ! お疲れさま!」
涼はこちらに近づいてくると、朗らかな声で吉野に声をかけた。
「そっちの様子、どう?」
「え……? あ、ああ。もう大丈夫そうだ。一時は危ないかと思ったけど」
吉野は一瞬戸惑った後にそう答えた。
それで、智也も思い出す。しばらく前から様子がおかしいが原因が分からない動物がいて、担当者に気を揉ませていると聞いた。吉野はそこのサポートに入っていたはずだ。
(確か、海外の大学にサンプルを送って、精密検査を依頼するって聞いたけど)
「さっき検査結果が来てさ。希な病気だったんだけど、治療できるって」
「そうか! よかったなあ。お前が早く気づいたから、大事にならなかったんだよな」
「そんなんじゃないって。たまたまだよ」
吉野は照れたように顔を伏せる。
「たまたまじゃないって。吉野の観察力が鋭いのは、前から知ってるし」
涼は手にしていた缶ジュースを吉野に差し出すと、悪戯っぽい口調で言った。
「これ、奢り」
吉野は目を丸くした。その丸い瞳が、見る間に柔らかい弧を描く。
「おおっ! 気が利くじゃん」
「ただでさえ今は忙しくて大変だろ。俺と塚田くんが、あっちにかかりきりだから――」
「業務命令だし、仕方ないじゃん」
吉野はちらりと智也を見やる。微笑んだままの表情で。
(あっ)
「でも吉野のことだから、あれもこれもって押しつけられてるんじゃないか?」
「いやまあ、多少はなぁ……」
図星だったらしく、吉野はため息を吐いた。幾つかのとりとめもない愚痴をこぼし、涼が黙ってうんうんと聞く。それを横目で眺めつつ、智也はコーヒーを啜る。
(この人、すごいな……)
智也はただ、感心していた。
(僕は吉野さんから、ネガティブな感情しか、受け取れなかった)
だが吉野には、自分の担当する動物が大変な時だけに、智也の態度がのんきに見えたかもしれない。二人が抜けたせいで負担も増えているのだ。苛立つのも無理はない。
涼はそんな吉野のささくれ立つ言葉をいなし、逆に愚痴を吐き出させ、なだめてしまったのだ。
「じゃ、二人とも頑張れよ! 地球の命運がかかってるからな!」
吉野は、ごちそうさん、と言って同僚と休憩室を出ていった。智也は小さく息を吐く。自分も帰ろうと思ったが、吉野と帰り道が一緒になるのも気まずい。なのでコーヒーをおかわりして、時間を潰すことにした。涼も立ち上がる様子はない。休憩室は二人きりだ。
(そうだ)
「涼、おかわり飲む?」
「あ、うん」
「何がいい?」
「コーヒー。どれでもいいよ」
智也は少し迷って、飲んだことのない銘柄を二本買った。
(同じ、やつ)
「はい、涼。僕の奢り」
「え、何? いいの?」
「うん。なんか気まずいとこに来てくれて、助かった……」
涼はただ、はにかむように笑った。智也は涼と同じベンチに、絶妙な距離を置いて遠慮がちに腰かけた。
「あの、さ、涼」
「ん?」
「涼は、すごいね。人のこと、よく分かるっていうか……」
「べつにそんな、大したことじゃないって」
涼は笑って言った。
「同じだよ、動物の世話と」
「え?」
「相手をよく見る、それだけ。で、何が欲しいか分かってあげる。人と動物を同じにするな、って言われるかもしれないけど……。でも俺は、愛情ってそういうもんだと思う。同じだよ。人間同士でも、動物相手でも」
「愛情……?」
「そう」
「そんな風に、考えたことなかった。――涼はやっぱりすごい」
「うーん、どうかな」
智也も言葉に、涼はどこか皮肉な苦笑いを浮かべた。
「俺のうちって親が――、ちょっと特殊な人でさ。別に厳しかったとかじゃないんだけど、俺は勝手にプレッシャー感じてて。子供の頃から、大人の顔色を読んで期待通りに行動しようとしてたのが、いつの間にか癖になってたんだ。それだけだよ」
「そう、か……」
親がすごい人だというのも、他人には分からない苦労があるのだろう。
「だからさ。俺の方こそ、智也のことすごいと思った。あの時」
くるりとこちらを向いた涼の思いがけない言葉に、智也はポカンと口を開けた。
「えっ?」
「園長から担当の話をされた時。智也、やります、ってはっきり答えただろ」
「う、うん」
「俺も本音ではやりたいと思ったんだけど、いつもの癖でさ、深読みしちゃって。すぐ返事できなかった」
「深読み?」
「そう。同期から反感買うかも、とか、俺がスポンサー企業の息子だから選ばれたのか、とか。子供の頃、そういうこともあったし」
「そっ、そんな!」
「でも智也があんなにはっきり、やりますって言って。人の顔色をうかがってばっかの俺と違って、智也は自分の意志をしっかり持ってるんだなって。だから俺も、自分がやりたいと思うならそう答えればいい、って思ったんだ」
「スポンサーの息子だからなんて、そんな理由であの園長が、大切な動物を任せたりするわけないよ!」
涼が。あの柴崎涼が、弱音を吐いた。智也はそのことに大いに動揺した。だからついつい、力強い口調になった。
「……そう思っていいかな?」
「そうだよ! 相手の心を分かってあげられるって、飼育員としてすごく大切なことじゃない? 園長も、涼にはそれができるって思ったから選んだんだよ!」
「……ありがとう」
涼が微笑む。珍しくたくさん喋ったので、智也は呼吸を整えた。
「ついでにひとつ聞いていい? 智也」
「ん、なに?」
「俺って、智也に嫌われて……ないよね?」
「はっ!? な、なんで!?」
「うん。あの台本とかさ、あれ本当は、俺と話したくないから……とか……」
「ちっ、違っ!!」
「俺が仲良くしようなんて言ったから、智也に気を使わせたかな、なんて」
気を使っているのはあなたです!!!!
智也は胸の中で叫んだ。
「智也、俺のことどう思ってる?」
涼は智也を真っ直ぐに見つめた。
(ヒィィイイイ!!!!)
相手に面と向かって、自分をどう思うか尋ねる。智也には、少なくともあと五百年くらい人生経験を積まなければ、到底無理な技だ。
「もし嫌なこととかあれば言って。一緒に仕事するんだから、変に無理したり我慢したりするとストレスたまるだろ?」
(すみません。本当にすみません!)
この人は本当にいい人なのだ。智也はつくづくそう思った。すごい人だと思う。だがそれ以上に、とても心の優しい人だ。正直なところ初めは、よくいるリア充、人づきあいがうまい要領のいいタイプ、漠然とそんなイメージを抱いていた。けれど、コミュニケーション能力だとか、そういうテクニックはあくまでもテクニックでしかない。相手の心を感じ取って理解しようとするその意思は、涼の優しい心からくるものだ。人によく思われたいという欲が、多少は含まれるにしても。
そんな涼が今、自分に向き合い、胸の内を話して欲しいと言っている。智也が口下手なことも察して、出てくるまで時間のかかる言葉を、黙って待ってくれている。
嫌いなはずがない。嫌なことなどあるはずがない。こんな自分に気を使ってくれて、本当に嬉しいし感謝している。至らない自分が情けないし、申し訳ない。本当は、もっと話がしたい。自分がこんなコミュ障でさえなかったら。もっと涼のことが知りたい。
そんな諸々の心がたった一言に凝縮されて、驚くほど滑らかに、智也の唇から滑り出た。
「好き!」
頭の中が真っ白になった。
(……待って。子供同士じゃないんだし、成人男性が好きってあんまり言わなくない?)
涼の顔をそっとうかがうと、案の定、頬を染めて瞳を見開いている。やっぱりちょっと変だったのだ。
「そ、そのっ、涼の考え方好きだな! すごいし! 仕事のやり方とかも要領いい感じっぽくて好きだし! なんか全体的に好き!」
智也は大慌てで取り繕った。
「あ、そ、……そう?」
「うん! そう! そうだよ!」
智也は力強く言った。
「涼みたいに、『動物も人も同じ』って考えれば、僕でももう少し人づきあいができるようになるかも……、って気がした!」
「智也は少し話せばいい奴って分かるから、いっぱい話した方が得だと思うな」
涼は微笑んでくれた。
「前から思ってたけど、智也って別にコミュ障じゃなくない? せいぜい、ちょっと口下手っていうくらいだよ」
「そ、そんなことないよ! 僕なんかほんと、全然ダメで!」
智也にとって人づきあいがうまいとは、まさに涼のような人のことを言うのだった。バーで女性客に飲み物を奢り、「あちらのお客様からです」とバーテンが言う。そういう人のことだ。
それを言うと、涼はさも愉快そうに笑った。心地よい笑い。なんだか些細なことを実際以上の大問題に考えていたようで、心が軽くなる。智也も珍しく声を立てて笑った。
「俺でよければ、いつでも気軽に話してよ」
涼は時計を見て立ち上がった。
「さあて……、と。休憩終わり」
「まだ帰らないの?」
「あとちょっと書類整理したら帰るよ。智也も、明日はしっかり休んでな」
「うん、そうする」
飼育員は交代で休日を取る。明日は展示もないし、食事の支度もしてあるから、涼一人で大丈夫だ。
「じゃあ、また明後日」
涼は軽快な動作で空き缶をゴミ箱に投げ入れ、休憩室を出ていった。
(……よし)
その後ろ姿を見ながら、智也は決意した。
(台本はもう……やめよう)
台本では、本当の涼のことは分からない。台本なんてなしで、普通の友達になりたい。
智也はしっかりと背筋を伸ばし、力強く立ち上がった。
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