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バカみたいなカン違い
翌日は休みだというのに早起きしてしまった。
顔を洗おうとしてふとバスルームの窓から外を見ると、街には緑が目立ち始めていた。
(窓、開けようか)
冬の間閉めきりがちだった窓を開けると、温かい春風が吹き込んだ。
智也のアパートは職場まで徒歩十五分、上山森林公園の裏手にある。智也は目を細め、彩り始めた公園の花壇を眺めた。見慣れた風景が、なんだかいつもと違って見える。
(キラキラしてる……)
出かけようか。智也はふとそう思った。
(最近、休日は勉強ばっかりだったし)
飼育員の仕事上、持っていると有利な資格が幾つかある。そのうちのひとつを智也は今年受験するつもりでいた。コミュニケーション能力で劣る自分を、別の面からカバーしようと考えたのだ。
だが今日は、いつもと違う休日にしたい。そんな気になった。
(明日、休みは何してた、とか涼と話せるし)
ぼんやり外を眺めていた智也は、手にしたタオルを落としかけ、慌てて掴み直した。
午前中に雑用を済ませて午後は街へ出た。すっかり春模様の街並みに、昨日まで気づかなかった。駅前までゆき、公開されたばかりの例の映画を見る。それから大型書店に寄って資格試験の参考書を買った。動物関連の書籍を見て回り、気に入った写真集があったのでそれも買った。
少し重たい袋を抱えて店を出ると、通り沿いのオープンカフェが目についた。新しい店らしい。以前はなかった。
この天気だし、外のテラス席で一息入れたら気持ちいいだろう。だが智也は躊躇った。テラス席にはリア充さんたちがいっぱいいる。
(涼なら、こんなお洒落な店も似合うだろうな……)
智也は迷った末に、勇気を出してそのカフェに入ってみた。伏し目がちに店内を見回すと、とてもよい雰囲気の店だ。
(一緒に来てみたいな)
のんびりコーヒーを飲みながら、買ったばかりの写真集をめくる。
(こういう本、涼も好きかなあ)
しばらくカフェで休んだ後は、買い物をすることにした。智也は人混みが好きではない。なのでいつもは、買い物は目的のものだけ買ってさっさと済ませる。だが今日はなぜか、目的もなくぶらつくのが楽しかった。
(いや別に、涼との話題作りのためとか、そんなんじゃないけど)
駅前のショッピングビルでいい感じの服が目に入り、ショーウィンドウをのぞき込む。手頃な値段で好きな色合いとデザインなのだが、自分には少し洗練されすぎている気がした。
(僕より涼に似合いそうだ)
智也はぴたりと動きを止めた。
(なんか僕、今日は涼のことばっかり考えてるな)
誰に知られるわけでもないのに、智也は気恥ずかしくなって顔を伏せた。
結局、日が暮れるまで街をぶらついた。
(さてと、そろそろ帰ろうかな)
智也は駅前の繁華街を抜け、上山森林公園に入っていった。ここからだと家は公園を挟んで反対側になるので、園内の遊歩道を抜けていくのが近道なのだ。
動物園の閉園時刻が過ぎても、公園自体が著名な観光スポットなのでまだ人出は多い。夜間はよくコンサートやナイトマーケットなどのイベントが開催される。今日も何か催しがあるらしい。遊歩道を歩いて公園の中央広場まで出ると、屋外ステージから賑やかな音楽が聞こえてきた。「さくらまつり」と書かれたオブジェが目に入る。毎年恒例、自治体主催のイベントだ。
(もうそんな季節かあ)
広場を突っ切りながらステージに目をやると、ジャズバンドが演奏している。智也も足を止め、しばし音楽に耳を傾けた。はしゃぐ観光客。屋台から漂う、綿アメやたこ焼きのいい匂い。楽しげな気分のお裾分けを貰う。
その時だった。人混みを分けるようにして、男女の二人連れが歩み出てきた。見たこともないほど整った顔立ちの女の子に、智也は驚いて目を見張る。まだ十代だろうか。ふさふさの睫毛に縁取られた、黒目がちの大きな瞳。すっと通った鼻筋に、小さく可愛らしい鼻。ほとんど素顔らしいのに、シミ一つないきれいな肌。健康的に色づいた頬とさくらんぼのような唇。大きな毛糸の帽子から、艶々したショートカットの黒髪がこぼれている。
(わあ……モデルさんかな)
女の子は子供が甘えるように、連れの男の腕にしがみついていた。
その男は――、涼だ。
「――!!」
涼と智也の目が合った。智也は息をのむ。涼はあからさまに、まずいところを見られた、という顔をしていた。
「と、智也……!」
涼は慌てたように笑顔を作った。
「ええと、その、偶然だな。お祭り、見に来たのか?」
涼らしくもなく、口調が焦っている。
「買い物行って……、帰るとこ」
智也は呟くように答えた。
「あ、そっか! 智也は近所なんだよな!」
「涼は――」
デート、と言いかけて智也は口をつぐんだ。女の子は涼の手にしっかりと指を絡めている。恋人繋ぎというやつだ。仕事帰りに彼女と待ち合わせてお祭りを見に来た、というシチュエーション以外、思いつくものが何もない。
「…………」
さっきまで気づかなかったが、春先でも陽が落ちるとまだ肌寒い。急に冷たくなった夜風に、智也は身を震わせた。
「俺はちょっと、その、この子がさくらまつりを見たいって言うもんだから……」
涼は言い訳がましい口調で言った。
(女の子とイチャイチャしてるところを見られて、恥ずかしいんだな)
何だろう。顔の筋肉が固まって、うまく動かない。どうしよう。頭が考えることを止めてしまったみたいだ。なにひとつ、言葉が出てこない。
ただ立ち尽くす智也の胸に、あの言葉が響いた。
『同じだよ。人間同士でも、動物相手でも』
智也はハッと我に返った。
『相手をよく見る。何が欲しいか分かってあげる。愛情って、そういうものだと――』
(愛情……)
智也は小さく息を吸い込んだ。顔の筋肉を意識して動かし、笑顔を作る。
「俺、もう行かなきゃ。家に人が来るから」
明るい口調で言う。
「あ、そ、そうなのか? 友達?」
「えっと、まあ、そう」
もちろんただの方便だ。
「じゃあ、また明日ね!」
智也は元気よく手を振り、涼の返事も待たずに踵を返した。
気まずい思いをさせずにさっさと立ち去る。間違いなく、それが今一番、涼が智也に望んでいることだ。
足早に歩き去る智也の背に、涼は、あ、また明日、と小さく叫んだ。
家に帰ると、智也は玄関先に買い物袋を力なく下ろし、ソファにちょこんと座った。朝からの浮き足だった楽しい気分は、きれいさっぱりどこかへ吹き飛んでしまっていた。
(僕、今日一日、何してたんだろ)
智也はごろりとソファに寝転がった。
(涼……)
胸の中で呼んでみる。
涼と、ほんの少しずつだが、距離を縮めることができている。智也はそう感じていた。だがあの女の子が智也に現実を見せつけた。
(よく考えたら、涼が僕みたいな陰キャと、本当に仲良くなってくれるわけないじゃん)
仕事仲間に気を使っただけだ。コミュニケーション能力に問題のある同僚を、フォローしただけ。仕事だから。
(なのに僕、いい気になって。涼みたいな人と仲良くなれるかも、なんて考えたりして)
馬鹿馬鹿しい勘違いをした。
けれど、ただそれだけのことで、どうしてこんなに惨めな気持ちになるのだろう。いつもの、よくある失敗のひとつに過ぎないのに。
わけも分からないのに、自分が悲しいのだと自覚した途端、鼻の奥がツンとして涙が滲んできた。
それで智也は初めて自分の想いに気づいた。
(僕……、涼を好きになってた……)
智也は仰向けになって天井を眺め、声を出さずに泣いた。充実した一日が、静かに終わりを告げようとしていた。
翌朝。
よく眠れないままに、いつの間にか朝を迎えていた。智也は号令でもかけるようにして、無理矢理ベッドから這い出した。そしてのろのろと出勤の支度をした。
職場へ向かう道すがら、寝不足の頭の中で台本を復習する。「普通の」、仕事仲間としての台本を。
『どうした智也。目が腫れてるぞ』
『ああ、友達と遅くまで飲んでて……アハハ……』
(よし。普通に話せる。大丈夫、大丈夫)
「おっ、おはよう、……涼」
「おはよう」
朝の挨拶を交わしたものの、その後は自然、口数が少なくなった。どういうわけか涼も今朝は覇気がなく、話しかけてこない。腫れたまぶたのことを言われるかと身構えていたが、それすら気づいていない様子だ。
(夜遅くまで、デートしてたのかな……)
考えたくないことが頭に浮かび、かぶりを振る。
涼がアルバたちを連れて展示に行ってしまうと、智也はホッとため息をついた。顔を合わせずに済む時間がありがたかった。展示の間に、いつもより手早く居室の掃除と昼食の支度を済ませ、二匹が戻る頃には飼育員室のデスクに向かっていた。
「ちょっと事務作業がたまってるから、片付けておくよ。昼は先に済ませたから」
提出期限の近い書類を口実に、智也は午後の作業を涼と分担した。夕食も、今日は人と食事する予定があるので、などと言ってテーブルに着かず、支度だけしてデスクに戻る。
そんな風にして、長い一日をどうにかやり過ごし、やがて交尾の時間になった。智也は二匹をベッドに入れてやりながら、心の中で呟いた。
(……嫌だな)
今日はとても、涼と一緒にそういう行為の観察をする気になれなかった。だが、どうしたことか。二匹はすぐに寝入ってしまうようだ。もぞもぞとベッドにもぐり込み、寄り添って目を閉じる。
(あれ?)
智也は首を傾げた。普段、二匹は毎晩のように交尾をするのだが。
(今日に限って……? そういえば、今日は少し元気がなかったような)
その瞬間。智也はハッとした。
――ポジティブな感情を受け取ると、繁殖を促すホルモンが分泌される。逆に憎しみや悲しみなどネガティブな心を感じ取ると、交尾を行わなくなってしまう――
担当を任された時に、園長から聞いた説明を思い出す。
智也は愕然とした。今日は一度も、涼と目を合わせていない。二匹はそんな智也の、沈んだ心を感じ取ったに違いないのだ。
(飼育員が繁殖を妨げて、どうするんだ!?)
智也は二匹の寝顔を見つめた。毛布をかけ直してやり、とぼとぼと飼育員室へ出てゆく。
(アルバ、ブラン。ごめんね……)
「お疲れさま。今日は、ダメみたいだね」
寝室のガラス窓の前で、準備をしていた涼が言った。
「うん……そうだね」
智也は力なく返事して自分のデスクへ戻り、広げてあった書類をまとめる。涼も観察記録用の器具を静かに片付け始めた。
事務仕事を口実にしたおかげで、今日は残業もない。そして、すれ違った、ちぐはぐな一日が終わる。深い自己嫌悪と共に。
「智也。ちょっといい?」
肩越しに振り向くと、涼はガラスの前で所在なさげに佇んでいた。
「あのさ……、今日、なんかよそよそしくない?」
「…………」
智也は顔を伏せた。本当のことなんて、言えるはずがない。馬鹿馬鹿しい、勘違いのことなんて。
「ごめん。ちょっと寝不足なだけ」
「もしかして、彼女とか?」
「ふぇっ?」
突拍子もない涼の質問に、智也は思わず間の抜けた声を上げて涼の顔をまじまじと見つめた。涼は慌てたように目を逸らす。
「ほら、昨日さ、家に人が来るって」
「あ、ああ! えっと、それは、別にそんなんじゃない……し」
「そっか」
(自分は彼女とデートしてたこと、聞かれたくなさそうだったのに……)
二人の間に気まずい沈黙が流れた。涼は片付けを終え、智也の隣のデスクに静かにかける。
「あ、あのさ!」
智也は意を決し、事務椅子を半回転させて涼の方を向いた。
「あくまでも仕事上のつき合いなんだし、プライベートにあんまり踏み込むのって、よくないと思うんだ――」
友達のように振る舞うのは、もう無理だ。でも単なる同僚としてなら――、頑張れる。頑張るしかない。
「だから涼、悪いんだけど、」
「ごめん!!」
智也の言葉をみなまできかず、涼は真っ直ぐ智也の方を向き、勢いよく頭を下げた。
「俺、つい……。智也に嫌な思いさせたなら謝る!」
あくまでも正々堂々とした涼の態度に智也は驚き、感心した。そして、いたたまれなくなった。
「いや、その、別に謝るほどのことじゃ」
(僕、いつも言い逃ればっかりしてる)
だが智也は苦い薬を飲むように、胸に秘めた想いを飲み込んだ。
「でも仕事だし、アルバたちの前では友好的な雰囲気で――」
「え?」
涼の表情が強張った。
「……アルバたちのため? 今までも?」
「え? だ、だって。繁殖のために、そうしようって」
「…………」
これまで見せたことのない、険しい涼の表情に智也はたじろいだ。なにか怒らせてしまったのだろうか。
「あ、あの、涼。えっと」
涼が、音も立てずにすっと立ち上がった。隣の椅子にかけた智也を端正な顔で見下ろしたかと思うと、覆い被さるように身をかがめる。
「え?」
まるで肉食動物に捕食される小動物のように、智也は涼に食らいつかれた。そして生まれて初めてのキスをされていた。
(え? え? えっ?)
目を閉じることすらできず固まっているうちに、涼の唇はどんどん貪欲になってゆく。熱い舌先が侵入してきて初めて智也は我に返り、大慌てで涼の肩を押しのけた。
「なっ、なに!? なっ、なん」
言葉にならない鳴き声を発する智也に、涼は冷たい笑みを向けた。
「仲のいい『ふり』するんだろ? どうせなら、徹底的にやればいいじゃん」
「涼、なに言って、」
再び唇が塞がれて、智也は言葉を奪われた。
「ん……っ、ふ、」
椅子に背を押しつけられ、身動きできない。それでも智也は無理に身体を捩って唇から逃れた。
「涼、やめてよっ! 嫌だ!」
嫌、ではない。嫌なはずがない。でも。
「涼、彼女がいるのにこんなこと……!」
「彼女? ああ、昨日の? あれは……、その、あの時だけだよ」
涼がはぐらかす。
「!!」
(あの時、だけの? そんな……)
涼がそういう人なら、好きでもない相手にキスするくらい何でもないことなのだろう。
(でも僕にとっては、そうじゃない)
好きだからこそ嫌だ。智也は顔を背けて唇を奪われないよう抵抗した。すると涼の唇は、標的を変えたとばかりに智也の耳元へ滑り込む。
「いっそ、ブランたちに地球人の交尾を見せてやろうか?」
耳元で囁かれ、その言葉の意味を理解すると同時に全身が熱く火照る。
「ふぁ……っ、や、やめ……っ」
智也は力を振りしぼった。のしかかる涼の身体を、思い切り押し返そうとした――その時。思わず手が止まる。
アルバとブランが瞳を見開き、ガラスの向こうからこちらを見ている!
「!!」
二匹は怯えた顔でこちらを凝視したまま、微動だにしない。
(もしかして、ケンカだと思ってる!?)
ネガティブな感情に敏感なアルバたちに、争いごとを見せるなどもっての外だ。
(ど、どうしよう)
このまま、抵抗せずにいれば。ほんの一瞬、心の底で別の智也が囁いた。
気持ちなんてなくても、このまま涼の腕の中にいたい。アルバたちを刺激しないため――それを口実に、されるがままになっていれば。
涼の唇はもう智也の首筋にまで下りてきていた。舌先が軽く肌に触れる。
「ん……っ……」
「智也……」
突然、智也の身体を押さえつけていた手がびくりと凍りついた。
「――あ!」
涼もアルバたちに気づいたらしい。
「お、俺……っ」
涼は我に返ったように飛びのいた。
「ご、ごめん……、ごめん智也……!」
自分のしたことが信じられないというように、かぶりを振る。混乱しているのが手に取るように分かって、ひどく痛々しかった。
「あ、りょ、涼」
「俺、頭冷やしてくる!」
智也が何か言う前に、涼は飼育員室を駆け出ていってしまった。
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