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勇気

「あ……!」  追いかけようかと迷った時、まだガラスに張りついたままの二匹が目に入り、智也は足を止めた。二匹とも不安げな表情で智也を見つめている。 (そうだ。僕が今すべきことは、アルバたちのケアだ)  智也は二匹を脅かさないよう、静かにガラスに近づいた。 「ごめんね、アルバ、ブラン」 何でもないよ。心配することはないんだよ。そう伝えたくて、智也は無理に笑顔を作った。しかしガラスに映る作り物の笑顔はひどく歪んでいて、まるで智也自身を笑っているようだ。笑顔はすぐに消えてしまった。  アルバが両手と額をぴったりガラスにつけ、智也をのぞき込む。智也はガラス越しに、アルバの額に自分の額をつけて目を閉じた。 「……驚いたよね。怖かったね」  今日の自分は、飼育員失格だった。二匹のケアをするべき立場でありながら、逆にストレスを与えてしまった。情けなくて、惨めで、智也は笑顔どころか、こみ上げる涙を堪えるので精一杯だ。 「愛情……、友好……」  幸福。感謝。明るい心。向上心。優しさ、強さ。清く正しく美しく――。きれいでポジティブで、理想的な言葉たち。だがそれらは、今の智也を容赦なく傷つけた。  いつもそんな心でいるというG38星人は、どんな人々なのだろう。智也はふと考えた。彼らはきっと、こんな自己嫌悪も惨めさも知らないに違いない。 「羨ましい、な」  智也は呟いた。 「……だ、ヨ」 「えっ?」  智也は顔を上げた。声が聞こえた――気がする。部屋の中を見回したが、もちろん誰もいない。目の前のガラス越しに並んで立つ、アルバとブラン以外には。 「……え?」  アルバが、唇を動かしている。 「!?」  智也は居室に通じるガラスドアに回った。居間に入るとアルバが寝室から出てきて、智也を見つめる。 「知らないわけじゃないんだよ。悲しいことも、辛いことも」  アルバが、そう言った。 「あ、アルバ! 言葉が!?」 「うん。本当は分かるんだ~♡」 「なっ……!」  しれっとしたアルバに、智也は絶句してしまった。 「い、今までっ、分からないふりしてたの!?!?」 「そうなんだ。ゴメンねっ?」  アルバは悪びれずににっこりと笑った。 「ほんとは内緒なんだ。でも智也がこんなに悲しんでるの、黙って見てられないよ」 「うっ」  彼らを心配するはずの自分が心配されてしまった。智也は項垂れた。 「ごめんね……。僕、飼育員失格だよね。僕のネガティブな感情のせいで、ホルモンに悪い影響が……繁殖の邪魔してごめん……」  しかしアルバは俯く智也の側へ来て、手を取った。小さな柔らかい掌が、智也の手をいたわるようにそっと包みこむ。 「笑ったり泣いたり。期待したり失望したり。怒ったり反省したり。君たちの心はとっても忙しいね。強くて、面白くて、可愛い」  アルバは微笑んだ。それはなぜか、少し寂しげな微笑みだった。 「君たちのこと、少し羨ましい」 「え?」 「G38にはね、長い争いの歴史があるんだ。滅亡する寸前まで争って、G38星人は決意した。争いの元になる憎しみや妬み、偏見、恨み、そういうネガティブな感情を技術力で排除して、心を管理する社会を作る。そしてG38星人は、ようやく穏やかに暮らせるようになった。でも……」  アルバは言葉を切った。 「それは――いいことじゃないの? 皆が穏やかな心でいられるんでしょ?」 「そう。いいことだよ。間違ってるとは思わない。……それでも」  アルバは目を細めて智也の顔を見た。 「ぼくには今の智也が眩しく見えるんだよ。涼のこと一生懸命好きな、智也の心が」 「…………」  智也にはとてもそう思えなかった。 「こんな気持ち、少しも眩しくなんかない。僕はバカみたいな勘違いして、勝手に悲しくなってる。それだけだよ」 「バカみたいとか言いながら、智也はその気持ちをとっても大切に思ってる」 「そ、そんなことない!」 「大切だからこそ、その気持ちを無視してあんなことされるのが嫌だったんじゃない?」 「……! そ、それは」 「ただ、そう言えばいいんだよ。涼のこと好きだから嫌なんだ、って」 「何のために? そんなこと言っても意味ないよ。涼には彼女がいるんだし」 「意味なくないよ。智也にとっては。智也はきちんと言わずにごまかそうとした。仕事だからとか何とか言って、言い逃れようとした。今悲しいのはその報いだよ。涼だって、智也に嫌われたと思って悲しんでる」 「…………」 「そうやってごまかし続けるよりも、ひとつひとつ、小さなことを言葉で伝えて積み上げていけばいいんだよ。小さなことひとつひとつは意味がないかもしれないけど、それがたくさん積み重なれば、きっと違うんだ」 智也は黙り込んだが、やがて力なく首を振った。 「……言えないよ」  自分の心をさらけ出すことは、勇気がいる。 「僕にはそんな勇気ない」 「智也……」  慌ただしい足音に、智也はハッと振り向いた。涼が戻ってきた。涼は室内を見回し、居室の方へ入ってくる。 「智也、ごめん!」  早足で真っ直ぐ智也に近づくと、掠は深く頭を下げた。 「言い訳はしない。俺、最低なことした」 「あの、ちょ、ちょっと待って」  智也は慌てて涼の肩に手をかけ、頭を上げさせた。 「その、えっと、僕も悪かったんだ。気を使ってくれたのに、はねつけるような言い方して」 「自分の気持ちを押しつけて、相手が応えてくれなかったからって怒るのはおかしいだろ。百歩譲って、怒ったにしてもあんなのはしちゃいけないことだよ。智也は悪くない」  言いながら、涼はどんどん項垂れてゆく。長い睫毛が頬に影を落とすのを、智也はただ見つめていた。 「ただ……。この頃智也といろいろ話したりして、なんていうか、その、楽しくてさ。智也も同じように感じてると思い込んでたんだ。でも実際はそうじゃなくて、智也は仕事だからそうしてただけで……」  涼は顔を上げ、智也を見つめた。 「なんか、ショックだったんだ」 「……!」  まるで頭から水を浴びせられたようだった。  自分の心を、こんなにはっきりと口に出す。相手に真正面から向き合って。それは、強くなければできないことだ。  自分はそんな涼の前で、本当の心を隠して体裁を繕おうとしている。自分だけがいい格好をしようとしている。 (そうだ。僕はずっと逃げてきたんだ)  人づきあいが苦手、と言って。アルバの言う通りかもしれない。今、そのツケが回ってきたのだ。大切に思う人と出会ったのに、どうしていいか分からない。  このままでは、いけない。 「涼。違うんだ。本当は――」  それでも、言葉は容易に喉につまる。 「えっと、その、さっき言ったのは……、建前なんだ。本当は、僕が涼のこと、好き――」  あれほどの質量の感情が、たった二文字に圧縮されてしまう。その言葉を口に出して始めて、智也は知った。智也を悩ませるもやもやとした想いは、結局のところ、いたってシンプルなものだったのだ。  それに気づくと、言葉は滑るように唇から溢れた。 「涼を好きに、なっちゃったから。昨日、彼女といるの見てショックだったんだ」  智也は深呼吸した。思いきって口に出してしまえば、とてもすっきりした気分だ。まるで世界が違って見える。涼の見ている世界の風景を、自分も少しだけ垣間見ることができた。そんな気がした。 「え……っ」  涼は驚いた顔で智也を見つめていたが、突然、慌てて言い訳を始めた。 「ち、違うんだ! あの子は、その――」 「待って、涼」  智也は静かに遮った。 「別に説明なんてしなくていいんだ。ただ僕は、涼のこと好きってだけで、その、つき合って欲しいとかそういうことじゃなくて――」 「好き?」  いきなり手首を取られ、智也は言葉を切った。 「えっ」 「俺のこと好きって、今言った?」 「え? えっと、その」 (聞こえなかったのかな。そうか。コミュ障だから声小さいし、聞き取りにくいんだ) 「す、好き!」  智也は少し大きな声で言った。 「…………」 「涼のこと……好き」 「…………」 「え、えっと、涼。……聞こえた?」  返事の代わりに、涼は智也を抱きしめた。 「涼!? ちょ、ちょっと」  慌ててその腕から逃れようともがく。しかし涼の体温が胸から伝わってきて、智也は動けなくなってしまった。 「…………涼」  彼女がいるのだと分かっている。失恋したのだと、分かっている。それでも。 (……今、だけ)  智也は涼の肩に腕を回した。これはきっと涼の優しさなのだろう。しばしの間、智也は涼の腕の力強さを、胸の温もりを、自分の身体に焼きつけるようにじっとしていた。 「……ありがとう」  しばらくしてから静かに身体を引き、精一杯の努力で微笑む。 「これで、諦められるよ」  少し時間がかかるだろうけど。智也は滲む瞳を見られないよう、顔を伏せた。 「智也、聞いてくれ! 昨日の子は本当に違うんだ。あれは――」 「ぼーくでーしたーー!!」  突然アルバが両手を広げ、二人の間に割って入った。 「うわぁっ!!」  智也は驚いて飛びのく。 「ちょ、アルバ! 脅かさないでよ! ……って、ええっ!? きみ誰!?」  そこにいたのはなんと、昨日の女の子だ。 「え? ええ!? なんで!?」  確かに昨日の子だ。そういえばアルバに少し似ていたが、アルバはちゃんと雄だし、見間違えるはずはない。 「アルバ! 秘密なんだろ、いいのか!?」  涼が慌てている。 「どっどっどういうこと!?」 「ぼくたちは物理的な実体を持たないんだよ。この姿はVRみたいなもので、設定を変えれば好きなようにできる」  アルバが言った。 「つまり……、変身できる、みたいな?」 「まあ、そういう理解でいいよ。ぼくたちG38星人は、他の星の人たちと交流する時は、相手の好みに合う仮の実体を使うんだ。物理的な存在がないと不便だったりするからね。隠してたんだけど、展示の時涼にバレちゃって。昨日はさくらまつりが見たくて連れていってもらったの」 「ちょっと待ってアルバ。今、『ぼくたちG38星人』って言った?」 「あ」 「つまり珍獣ってのは――嘘!? 君たちが、G38星人ってこと!?」 「じゃーん!」  アルバは両手を腰に当て、ふんぞり返ってみせた。 「言葉も分からない珍獣と思えば、地球人も油断して普段の姿を見せてくれるでしょ?」 「じゃあ繁殖は? 実体がないなら繁殖なんてできないでしょ!?」 「できるよ。Ω体に備わった自己複製プログラムに交尾を通してα体の特定のパラメタを代入して演算処理すると新たな自己複製機能を持つプログラムが生成されて――」 「わ、分かった。分かんないけど。っていうかなんで、僕が勘違いしてること教えてくれなかったの!?」 「ふふふ~ん」 「ふふふんじゃないよ!」 「めでたしめでたし」 「違うでしょ!」 「でもこれくらい思いきった刺激がないと、智也はずーっとウジウジしたままでしょ」 「うっ」  智也はがっくりと項垂れた。 「さっきの、ちょっといい話みたいのは何だったの……」 「智也!」  突然肩を掴まれて智也が顔を上げると、そこに涼の真剣な瞳があった。 「俺も、智也が好きだ!」 「……え、えっ?」  甘く切ない気分がどこかへ吹き飛んでしまっていた智也は、涼の言葉を理解するのにしばらく時間がかかった。 「え? 涼、なっ、何?」 「俺、智也のこと、えっと、その……」  涼は顔が真っ赤だ。 「俺、智也と交尾したい!」 「…………ふぁっ?」 「あ、ベッド使っていいよ~♡」 「え!? ちょっアルバ何言ってるの!? ちょ、ちょっとまっ」 「……だめ、かな」 「ダメだよ!いやそうじゃなくて、ダメっていうかダメだけど!いいけどダメです!!」  目の前にある涼の顔に向かって、智也は必死で主張した。――が。 「……智也」 (うわぁ……)  大好きな顔がそこにある。きれいで、優しくて、大好きすぎる涼の顔が。 「む、無理、無理っ!」 「智也、嘘ついてる」 「嘘じゃない! 交尾なんてダメ無理!」 「……言っただろ。相手が何を欲しがってるか、分かってあげるの得意なんだ、俺」  涼は微笑んだ。 「智也、今、子犬が撫でてもらいたい時の顔してる……」  そうして、唇がゆっくりと重なった。 (ああ……無理)  智也は降参した。

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