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再会

 朝目覚めると、そこに瀬崎の姿はなかった。何もなかったかのように、全ての私物も消えていた。ソファーにもたれ掛かるように眠っていた俺には、瀬崎に掛けてあったタオルケットが掛けられていて、まだ匂いが残っている。出て行ってから、まだそんなに時間は経っていないはずだ。だからといって、追いかける術があるわけじゃない。  俺…、どうしてしまったんだろ?  昨日会ったばかりの奴に、会いたいと思っている。どうやったら会える? いくら考えたってわかるわけない。だって、俺は瀬崎大和のことを何も知らないのだから…。 「おかえりなさいませ。お坊ちゃん」 「ただいま。久しぶりだね、栄さん」 「さあ、美味しいお茶菓子でも…」 「うん、後でいただくよ。それより、お父さんは?」 「朝早くからお出かけになられています。もうすぐお戻りになるかと思いますが…」 「そっか…。じゃあ、先にお茶菓子を貰おうかな」 「畏まりました。すぐにご用意致します」  久々に実家へと帰ってきた。大学へ通うようになって一人暮らしを始めてから、一年に一度帰ってきたらいい方だ。  この家は、小さい頃から息が詰まりそうだった。会社を継ぐために、ありとあらゆるマナーや話し方、語学の勉強と、遊ぶ時間なんてほとんどなかった。大学へ行くと同時に、四年だけというという約束で家を出て、自由に過ごしている。  そして、父親を避けるように帰ってきていた。  それなのに…。  こういう時にだけ調子がいいって言われるのもわかっているけれど、誰かに頼むよりずっと仕事が早いことを知っている。  どうしても知りたいんだ…。瀬崎大和のことを…。 「お待たせしました」 「ありがとう。いただきます」  目の前には、美味しそうな有名店から取り寄せたであろう和菓子と、湯呑みに入ったお茶が置かれた。 「美味しい」 「さきほど届いたばかりのものなんです。お口に召して良かったです」 「栄さんも一緒にどう?」 「いえ、私は大丈夫です」 「そっか」  栄さんは、俺が小学校に上がる前からこの家の仕様人として働いている。栄さんだけがいつでも俺の味方だった。泣きたい気持ちも、悔しい気持ちも全てわかった上で、包み込むように優しくしてくれた。俺から笑顔が消えなかったのは、きっと栄さんがいたからだと思う。  真中・コーポレーションの社長の息子というだけで一目置かれる存在で、学校でも専属の教師がつけられるほどだった。そんな肩書き、俺にはどうでもいいものだったのに…。世界をまたに掛けるホテル経営者である父親は、世界中から注目されるほどの存在だ。  だけど俺の記憶の中にいる父親は、家にいることは滅多にない忙しい人だったから、一緒に遊んだ記憶なんてない。出ていく背中を見送るばかりだった。それでも、この家の長男として産まれた俺の将来は、自分の夢を持つことさえ許されない跡取りとしての道だけ。 「帰って来そうにないね」 「そろそろかと…」 「じゃあ、帰ったら部屋にいるから連絡を」 「畏まりました」 「お願いします。それから、ご馳走さま」 「お粗末さまでした」  立ち上がって自分の部屋へ移動しようと、ダイニングのドアを開けて玄関前までやって来た。 ースーッー  玄関のドアが静かに開いた。俺は、そのドアの方をじっと見つめる。 「おかえりなさい」 「聡弥か、珍しいな」 「ご無沙汰しています」 「どうした?」 「お願いしたいことがあって…」  会釈をしてから顔を上げると、俺は自分の目を疑った。 「お、おまえ…」  父親の後ろに立っていた人物に、驚きのあまり動けなくなってしまう。 「真中社長の秘書をしています。瀬崎大和です」 「秘書…?」 「はい、よろしくお願いします。聡弥さん」 「ちょっ、ちょっと…待って…」  目の前にある状況に、頭がついていかない。瀬崎大和が父親の秘書? じゃあ、昨日の出来事は…? 俺たちの出会いは…?  見開いたままの目は、昨日とは違ってきっちりとスーツを着こなした瀬崎大和を捉えていた。 「お願いしたいことっていうのは…?」 「いえ…、もう必要なくなりました。失礼します」  何が何だかわからなくて、俺はとりあえず二人の横を通り過ぎて玄関のドアに手を掛けた。  まさか…こんな近くにいるなんて思いもしなかった。しかも、父親の一番近くにいる人物だったなんて…。バカだ…俺。まんまと父親の引っ掛けた罠に引っ掛かってしまったんだから…。  行かなきゃ良かった。父親に頼ろうなんてしなければ良かった。会いたければ、出会った場所で待っていれば、また会えていたかもしれない。けど、何も知らないまま気持ちだけが大きくなってしまったら? 後で知って、俺は瀬崎を責めずにいられる?  何か意図があって近づいてきたのなら、きっと許せないほどに傷ついてしまう。そう考えれば、早く気づいて良かったのかもしれない。気持ちが大きくなってしまう前の今なら、まだ気持ちにセーブができるから…。  そのまま飛び出してマンションへ帰ってきた俺は、出て行ったままのソファーに顔を埋めていた。薄れている匂い…。昨日、瀬崎は確かにここにいた。 「選りに選って、何でお前なの?」  誰もいない部屋で小さく投げかけてみても、答えなんて返ってくるわけがない。タオルケットをぎゅっと握りしめながら、小さく丸まった。  忘れられるわけなんかない。あんな出会いをしたんだから…。会わなければ薄れていくはずの記憶は、消えてくれることなんてなくて、一人の時に思い出すのは、瀬崎のことばかり。自分でもバカだって思う。だけど、どうすることもできない気持ちばかりが大きくなる。  行きつけの店で夕食を済ませて帰宅しようと、あの橋へ差し掛かった。そこに浮かび上がる人影がすぐに瀬崎大和だとわかり、立ち止まることはせず前を通り過ぎようとした。 「真中聡弥」  後ろから呼び止められて、気がつけば立ち止まっていた。でも、振り向くことはしない。 「なんで、ここにいるの?」 「わからない。でも、ここに来れば会えると思ったから」 「目的はなに?」 「目的って…?」  とぼけようとしているのか、聞き返してくる瀬崎にイラッとして、振り返った。 「お前が俺の前に現れた目的だよ。どうせ、父さんの差金だろ?」 「それは違う。これは、僕が勝手に…」 「嘘つき…」 「嘘じゃない」 「じゃあ、なんだって言うんだよ」  一歩近づいて来た瀬崎から、一歩後ずさる。信じられるわけない。父親が関係ないなんてこと…。会社のためなら手段を選ばない人だ。そんなことはとっくに知っている。 「俺は…もう一度…」  言いかけた言葉をグッと呑み込んだ。ダメだ…。奥歯を噛みしめて歪んでいく視界を戻そうとする。瀬崎が秘書じゃなかったら、この出会いが運命だって思えたのに…。 「あんたは誤解してる。社長のこと…」 「どういう意味だよ」 「あの方は、いつだって家族のことを一番に考えている」 「そんなこと…、なんでお前にわかる?」 「一番近くで見ているから」 「俺は…、父親と一緒に過ごした記憶なんてない…」 「それでも、こんなセコイやり方をするような人じゃない」  例えそうだとしても…。今はまだ現実を受け入れらない。だって俺は…。 「帰る…」  ポツポツと降り出した雨の中、傘なんて持っていない俺は、背を向けて歩き出す。 「なにしてんの?」 「風邪引くといけないから…」 「関係ないし…」  濡れないように、瀬崎は持っていた傘を俺に掲げてきた。見れば瀬崎は雨に打たれている。どこまでバカなんだよ…。 「いいから、帰れよ」 「そんなことできない」 「今は、お前の顔なんて見たくない…」 「それなら、これを」  そう言って、傘を俺の手に握らせてくる。 「いらないってば!」  つっ返すように傘を差し出す。すると、突然俺の手を握った瀬崎が歩き出した。ビックリして隣に並ぶ瀬崎を見ると、やっぱり半分以上濡れている。今は意地を張るのを辞めよう。きっと、意地を張って突っ返したら、瀬崎はもっとずぶ濡れになってしまうだろうから…。 「じゃあ、ここで」 「ああ…また」 「またがあるかはわからないけど…」 「また…」 「バイバイ」  マンションのエントランスまでやって来ると、握られていた手を離して瀬崎から距離を取った。すぐに離れなければ、自分の気持ちが揺らいでしまいそうだから…。  バイバイと手を挙げて、俺は背を向ける。視線を感じながらエレベーターに乗り込むと、エントランスには瀬崎大和が立ったままこっちを見ていた。胸がどくんとする。その胸を押さえて、深く息を吐いた。

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