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苦界の蓮華 -三-
「よっ…!」
ウテナが掛け声とともに立ち上がる。その隙に布団をたたんで、とりあえず上座の方へと追いやる。あとは彼の禿か新造が部屋を片を付けるだろう。
「さて」
ウテナは、自らの箪笥へと近づき次々新しい湯巻や肌襦袢を出していく。それを手早く身体に身にまとっていく。その速さは的確で乱れもなく、狂いもない。彼が今のいままで愚図愚図していても、身支度が素早い事でそれが許される。
夜蝶は、その隙に先ほど追いやった着物の中から簪等の必要な物と洗濯物を選別していく。そして、夜蝶が自ら持ってきた油等や紅などを箱の中から出して広げていく。
「…準備出来ましたよ」
夜蝶の準備が一通り終わる頃には、ウテナは艶やかな金糸が織り込まれた着物を身につけていた。
「んぁあー…終わった?」
化粧をしていないため派手な色の着物と首から上には多少の違和感がある。
「はい、いつでも…」
ウテナは、化粧台の前へ座った。鏡に写る自らと視線をあわせたあと、背筋をしゃんと伸ばして後ろの夜蝶にいう。
「よろしく」
夜蝶は短く『はい』とだけ返事をして彼の髪に手をかける。
錦糸のように滑らかで艶やかな髪に櫛を通して光沢をだしていく。
髪の長さは腰に届かないくらい。手早く櫛を通して油と共に乱れないように髪を結っていく。一夜にして、引く手数多の御仁を相手にする太夫の髪が動いて、乱れないようにする。
誰だって、誰かの相手をしてきて、乱れた髪の太夫に相手をされたくは無いだろう。いつだって客は、太夫の1番の馴染み客であるという実情を楽しみに求めに来るのだ。
確かに、多少乱れた程度では太夫の艶やかさを昂らせることにもなるが、それも限界がある。太夫がその髪を解くまで、髪が太夫の美しさを保てるように結っていく。
「失礼します」
先ほどの夜蝶と同じように、襖が開くと太夫の禿が入ってくる。
「はい、よろしく」
動けない太夫は、鏡越しに禿を確認すると手短に返事をした。
禿 とは太夫の身の回りの世話をする童子のことで、新造 とは禿の年齢を過ぎた見習いで、彼には1人の禿と2人の新造がいる。今やってきた禿は、太夫の部屋の掃除と片付けに訪れたのだ。先ほど、上座に丸めた布団や、隅にまとめた着物等を小さい体を動かして回収している。
「失礼致しんす」
遅れて新造が入ってくる。禿よりも少しだけ大人びた顔をしている。
「あいよ」
また、鏡越しに顔を確認した太夫は新造の言葉に返事をした。
「花魁、今日の予定なんでやんすが…」
新造は、口調や表情は凄く真面目なのに顔立ちには華がある。成長すれば化けるような彼は鏡越しにじっと太夫を見つめている。
「今日は、最初のおゆかり様がおりんせん。…見世で客引きをおがみいす」
今日の太夫の予定は見世に出て客引きから始まるそうだ。大体の太夫はあまり良い顔をしないが彼は短めの返事をするだけで嫌な顔をしない。
「あいよ」
夜蝶は太夫の次に新造の髪と禿の髪も夜蝶が結う事になっている。一夜で髪結としての仕事は時間との戦いであった。
新造が支度を済ませて部屋に入り、太夫の髪を結うのをじっと見つめて待つ。その間、禿はせっせと部屋の掃除やら、なんやらを済ませている。
「…花魁は、今日もお綺麗ざんすな」
髪の結い上がっていく太夫をみて、禿が後ろからそう言う。
「おい、どうした?なんもでねぇぞ」
はははっと太夫は笑った。
照れ隠しをしてはいたが機嫌は良い。
「ほんざんす」
禿は、鏡ごしに太夫を見つめている。けれど、手は動いており床に散らばった将棋のコマを1つ1つ手早く拾っていた。
花街で唯一の男娼の妓楼で、初めて太夫になった彼は妓楼の中では羨望を集めている。
地獄太夫に嫉妬心を剥き出しにするものは少ない。なぜなら、さらりと去なしてしまうからだ。遊女でさえ、ため息がでるほどの美しい顔立ちに加え、囲碁や将棋等の武芸にも長けていて器量も良い。しかも、面倒見も良いので、彼を敵視する者はそもそもいないのだ。
「聞いたか?夜蝶!間夫 ばかりだと思わねぇか?」
「そうだな…つーか、その口調も早く治せ」
夜蝶は、太夫の髪が終わって腕に疲労感を感じていた。少し額に汗をかいている。
乱暴に腕で汗を拭う姿は男らしかった。
「まだ、良いじゃねぇか。化粧してねぇんだから」
最後に化粧を自らで施して、彼は地獄太夫になる。
それまでは、まだ芽吹かずに土の中にいたい。と言っているようだった。
「…ほら、おめぇらもこっちこい」
続いて夜蝶は新造の髪を結い始める。
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