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苦界の蓮華 -六-
その頃、見世では地獄太夫に客がつき、座敷へ入ってしまった事から、人だかりが徐々になくなりつつあった。
馴染みが着くまで、茶でも引いて転がしてやれば良い。
そんなつもりで、太夫が客の待っている部屋に通される。禿と新造を従えて、部屋に入ると、御仁は静かに座っていた。そして、地獄太夫の姿をみて『おおっ』と頬を緩める。太夫は、座ったまま状態で開けた襖の側に座り、そこから動かない。客は皆同じ反応をするから、飽き飽きしている。
用意させた酒とつまみは、禿と新造がせっせと部屋に運び、男に酌をする。地獄太夫は、じっと1寸ほど先の畳を見つめ、頬を少し緩めて何も話さない。
「…俺は、一休 宗純 だ」
どうせ主 としか呼ばないのだから、名前を覚えるだけ無駄だ。
ああ… まぁー…
手紙を送る時には、必要だから一応覚えておくか。
片隅にでも。
「噂に違わぬ絶世の美人だな…」
蝋燭 の薄明かりが、地獄太夫の美しさを映し出している。
余計なものは暗闇が隠してくれる。蝋燭の明かりは都合の悪いものを隠してくれるから、見なくて良い。宗純は、その美しさに感心していた。
小さな猪口に、新造が酒をつぐ。
安っぽい褒め言葉には反応をしない。
『絶世の美人』なんて言葉は耳に蛸ができるほど言われてきたからだ。そんなことを言うために、一時を買ったのではあるまい。
「…」
一休宗純は、太夫の見立てでは40代くらいだろう。
浅黒く日に焼け、着物も薄汚れている。髪は、剃毛していないどころか、生えた際はボサボサだ。かろうじて髭は整えているようだが、とてもじゃないが金子を持っているとは考えにくい男。
「山居せば…」
地獄太夫は、まるで薫香の煙のようにゆっくりと視線を上げ口角を緩ませる。
微かに緩んだ口元は、艶やかな紅が塗られていて、輪郭を浮き立たせていた。
「深山の奥に住めよかし ここは浮き世のさかい 近きに」
声色は鈴を鳴らしたようで、声量は微か。
一見、その美しさに心を奪われ気づかない者もいるだろう。もしくは『笑った!』などと勘違いを起こして心を奪われて、何も言えないものもいるかもしれない。
太夫の視線は息をのむほどの色気を含んでいる。これも全て、薄暗い蝋燭の明かりが余計な感情を隠してしまうからこそ多くの人は勘違いを起こし、美しさばかりにうつつを抜かし気づかないのだろう。
よく見れば、まるで茂みに潜む獣のようにこちらの心根を見定めているが、半分は小馬鹿にしている。どうせ腹も満たせぬほど骨張った獲物とでも思っているのだろう。
お世辞にも心地よいとはいえない視線なのにもかかわらず『太夫』という名声のお陰で、その見下すような視線すら価値があるように思わせてしまう。さすがは傾城と称賛すべきだろうか。美しい駄掛けの重さを彷彿とさせるほどの威圧感と、一夜の金子の値打ちをそのまま客に真っ直ぐ向けて、後ろめたさと恥じらいを煽る。嫌な客は、視線を合わせることすら嫌悪しているのだろう。
「…」
宗純は、まるで視線を合わせてやって、部屋で同じ呼吸をしている事を有り難く思え。
とでも言われているかのような気分だった。
「…ほぉ、なるほど…」
宗純は、口元へ運びかけた酒を下ろして目を細める。
浅く息を軽く吸ったあとニヤリと頬を緩めて息を吐く。
「一休が 身をば身ほどに思わねば 市も山家も同じ住処よ」
宗純は続ける。
「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」
宗純は涼しい顔で視線を上げて、元々眼力にある瞳を細めて太夫を見つめる。
地獄太夫は少し驚いていた。
その後、射るように視線を鋭くさせてから、静かな声色でいう。
「しにくる人のおちざるはなし」
その言葉を聞いた宗純は、わはははっ!と声を上げて笑い、地獄太夫も口元を隠してクスクスと微笑んだ。
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