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苦海の金魚

「なぁ、人間って30歳まで童貞だと魔法使いになるって本当なのか?」 「え?あぁー…うん」  そんな都市伝説があるのは知っているだろうか。 「…」 「…」  太古の昔から、日本という国には『元服』という儀式があり、大人として認められたきた。  元服は12歳から13歳程度で、双肩に様々な宿命を背負う。一族の行末を考えたり、家督を継いだり。現代社会においては、12歳なんて小学生に毛が生えた程度の認識…いや、中学生か。まだ陰毛も生えそろっていなかったと思う。  そんな年齢で、昔は大人として戦に出て戦果を上げ、そして30歳前後で皆命を落としてきた。平均年齢が80歳を超える現代社会においては考えられないことかもしれない。もしも、彼がその時代に生まれていたら、確実に死んでいる年齢である。 「で?…どうかされんしたか?」 「で?じゃない…それでいいのか?」 「…なにが?」  年齢以上に若く見える彼は、こちらの言葉の意図を疑っている。 「それって、どういうこと?」  先ほどまで、こちらの言葉をじっと待っていたが、何か大きく勘違いを巡らせ始める。  声は低くなり、瞳は鋭くなる。 「えっ…」  その様子に驚いて言葉を見失うが勢いは相手の方が強くなる。 「確かに30歳は昔なら死んどうす…今は食品添加物を摂取して昔の人間ほど人の体は腐りにくいと言われておんす。防腐剤とかを長い間をかけて摂取するからでござんすなぁ。ちなみに人魂(ひとだま)っていうのは、昔は土葬が主流でござんしたから、棺桶に入った人が埋められて、お線香を立てるざんしょ?人の体が腐ったガスに引火した物だっていわれてる説がありん…」 「待て待て」  一息で言い切った言葉を制した。   彼は無駄のない、柔らかそうな背をこちらに向けて座っている。  机は、窓が開け放たれた明るい月明かりで照らされており、彼は半紙に筆を走らせている。その指は細筆のように細く、そして竹のようにしなやかだ。   その半紙には、馴染み客に当てての文が書かれている。こうして当て付けのように目の前で書くことによって、嫉妬心を掻き立て、客同士で競わせる。これは花魁の手練手管。  自分と一緒にいる時間に、別の男への思いなど馳せるなと、嫉妬心を丸出しにした客が示す反応は大体同じ。筆を取り上げ、押し倒し、熱烈に瞳を合わせて「月は綺麗だ」と嘯く。その少しの嫉妬心がやがて業火のように身を焦がす火種となる。  ――――相手が苦海に住む金魚だとも知らずに…  金魚鉢の中を綺麗だと覗き込んで顔を突っ込んで溺れた客が一体どれほどいただろうか。 「何?」  不機嫌そうに尋ねてくる。 「お前、なに怒ってんの?」  長い付き合いなので、そのくらいのことはわかるようになってきた。  昔なら、わからなかったが。 「別に怒っておりんせん」  フイッと顔を逸らす。ゆっくりとした気品ある言葉にかすかに怒気が含まれている。 「明らかに怒ってんだろ」  やはり、怒っている。なんで怒っているのかまでは分からないが、頭の良い彼の考えが変な方に暴走したことだけはわかる。 「怒ってない。莫迦」  布団から起き上がって彼の側ににじり寄る。  畳の上を腕の力だけで滑るようにして彼に近づくが、顔を背けたままだ。 「おい」 「何?」  ムッと頬を膨らませている。  …やっぱり、怒ってんじゃねぇかよと眉を潜める。 「なに怒ってんだよ?さっきっから…」 「怒ってないって言ってんじゃん」  徐々に口調から普段の不躾な彼が覗く。 「しつっこい!怒ってないって言ってんだろっ」 「怒ってるだろ」  ムキになりだす。 「…わかった」  埒のあかない問答を続けるつもりはない。  長い間の付き合いとはいえ、彼の心情を彼の表情から読み取るにも限界がある。  元来、鈍い方なので彼が怒っているというのが分かったのは大変な進歩なのに、ムキになって『怒っていない』と主張し、関係性がこじれるのは納得がいかない。そもそも、関係性がこじれるのは不本意で、話したいことの10%も消化できていない。 「お前は、もう何も言わなくていい。お前の身体に直接聞くから…」  聞く耳を保とうとせず、話を先に進ませない彼に実力行使に出る。  背後から彼に腕を回して、こちらを向けないようにする。 「あ、いいます」  何をしようとしているのかを察知した彼は、固執していた苛立ちから呆気なく手を離した。  しかし、一瞬遅かった。体の自由を奪うような太い腕が、彼の体に巻きつく。 「もういい。しばらく喋るな」  振り上げた拳は簡単に下ろさない。

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