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苦海の金魚 -三-
「そんな事か?」
彼が太夫にならない理由は、彼が唯一太夫と認めたその人と同じ運命を辿りたくはないからというのを楼主に伝えている。
この妓楼では、太夫になるならその名を継がなければならない。
かつてのその太夫が栄華を極め、この妓楼を唯一無二の存在として、世間に知らしめた縁起の良い名前だからだ。その名跡の襲名となれば、花街は一気に活気づく。
当時、花街で唯一の男娼の妓楼であったこの館は、偏見と差別を受けていた。酷い時は『下手物』や『化物屋敷』などと呼ばれて嘲笑されていた。
そんな妓楼に誕生した太夫の存在は大きく、今やこの花街に数々ある男娼を専門とした妓楼と、男娼の太夫のとしての地位を確立した伝説の花魁であった。
その名の太夫の噂は、知らないものはいない。名跡も空席のまま。この妓楼を去っても尚、太夫の噂は語り継がれるほどの人なのだ。
本心では、そんな大きな存在の傾城になる自信がないというのが本音。
彼は、伝説的な太夫に禿 として使えていた。だから、誰よりもそばで傾城を見てきたのだ。その名を継ぐということは、世間から認められる…という意味合いよりも天秤にかけられるということ。
そうなったときに、彼にはなんの取り柄も、価値もないことを知っている。
ならば、今の名のまま太夫を名乗っても良いという楼主の提案もあるが、それでも渋っている。彼の中には『傾城の太夫』とはこういうものであるという固定概念が拭えないらしい。
「そんなことって…っ!」
顔を上げて、彼の不安を鼻で笑った男に目くじらを立てる。
「俺にとっては、物凄い重要なことなんだよっ!」
太夫を継ぐのに充分な魅力や資質はあると思う。だが、妙な所で弱気になることがある。
「どんどん若くて綺麗な奴らは入ってくるし!みんな素直で覚えは早いし!それに…っ!」
完全に、花魁としての自分を見失っている。普通、客にこんな事までは話さない。
まぁ、そこも魅力といって仕舞えば、魅力なのだが…
男がまだ初心だった頃。
成人したことの祝いで花街に連れてこられた。当時は、まだこの妓楼に傾城の太夫がいて、その名が花街中に蔓延していた。彼を模写した浮世絵や題材にした春画は飛ぶように売れていた。その時にこの妓楼へ連れてこられ、当時も変わらず女郎だった彼と出会った。何度か会話をしているうちに彼の魅力に落ちた。
男は初めての相手に彼を買った。手練手管で転がされ、呆気なく房事の良さを体に教え込まれた。成人したばかりで、恋の色葉も駆け引きもしらない男にとっては、過激で刺激的だった。
付き合いで別の妓楼の遊女を買ったこともあったが、彼の手管と比べて萎えてしまい、それ以来は彼しか買っていない。
ゆくゆくは、彼を身請けする話をしている。だが、花魁を身請けするという事は世間の目が冷たい。お互いに時期を図っているところだ。
「はいはい。わかったわかった」
「おいっ!聞けよっ!」
適当に返事をすると、また彼は怒り出した。
「お前の可愛いはわかったから落ち着け」
グリグリと頭を撫でると、首を振って頭を上げる。
「莫迦にすんなっ!莫迦っ!」
ぷりぷり怒っている顔も可愛い。こういう時の語彙が少ないのも可愛い。
怒って膝の中から出て行ってもいいのに、出ていかないところとか…なんてったって、彼の魅力だと思う。
「俺が、いつお前を莫迦にしたって言った?」
「今してただろっ!」
「してねぇよ…お前が可愛いって言っただけだろ。素直に受けとれよ。可愛いんだから。めんどくさいやつだなぁ」
捻くれた性格をしているのは、この花街にいるからだ。
言葉通りには受け取らない。人は嘘をつくことができるから。
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