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黒い翼と桜の木

「おかえりぃ♡ いい話はできた? あれどうしたの? そのほっぺ」  誰もいない教室でひとり座っていた悪魔は振り返り、妖しく犬歯を覗かせた。 「お前には関係ない」  痛みの引いた頬の冷えピタを剥がす。 「……ひなたはどこだ」 「知らない。まだ戻ってきてないよ」 「ひなたに何かしたんじゃないだろうな!」  ただの職員室での話がこんなに長引くわけがない。  悪魔は余裕の笑みを浮かべ足を組みなおし、ひなたの席を指さす。 「ひなたくんのカバン、まだ残ってるでしょ? ほんとにまだ戻ってきてないんだよ。俺はこうしてひとり寂しくみんなを待っていたの」 「嘘をつけ……っ」  掴みかかろうとした腕を律佳に止められ、引き寄せられる。律佳の腕が腰にまわり、少し驚いてしまった。 「こいつに近づいてはいけない。危険だ」 「でもっ、ひなたが……!」  腰に回った手がさらに強くなる。律佳はじっと悪魔をにらみつけている。ヒリヒリと刺さるような空気。  余裕ぶっていた悪魔は面白くなさそうに鼻を鳴らした。 「へぇ、なに? ボディーガード気取り?」 「そうだ。俺は亜紀を守ると決めた。てめぇには触れさせねぇ」  ……え、”俺”、“てめぇ”……!? 焦りながら律佳の顔を見るが、俺の視線に気づく気配はない。ブチ切れている。  一人称も二人称も変わってるんだが!? 「せっかく亜紀くんと話してたのに。邪魔しないでくれる?」 「てめぇに亜紀と話す権利はない。今すぐ葬ってやる」 「はは、亜紀くんにその乱暴な口調バレちゃうよ。いいのかなぁ?」  触れ合った肩がピクリと跳ねた。ものすごい剣幕だった律佳は俺のほうを見て、嘘みたいに物柔らかに微笑んだ。 「亜紀、大丈夫だよ。もうなにも背負わなくてもいい。僕がいるから」 「り、りつか……えと、あの……」  守ってくれるのはありがたいけど、やっぱり……なんか怖い!! 「清々しいほど人が変わるねぇ。ほーら亜紀くん、ぷるぷる怯えちゃってかわいいね。こっちおいで、律佳くんより優しくしてあげる」 「だめだ亜紀。悪魔の言葉に耳を傾けてはいけない。僕のそばにいて」  ふたつの強い視線が注がれる。なんだこの状況。 「や、俺はひなたを探しに行きたいんだけど……」  放っておいたらいつまでも続きそうな硬直状態を破るべく、身をよじる。  すると窓の外、視界の端に動く人影が映った。 「ひなた……!?」  引き寄せられるように窓に駆け寄り、鍵を開ける。  グラウンドの向こうの大きな桜の木。そこに近づき、登ろうとしているひなたの姿があった。 「え、あそこにいる人かい? 僕にはひなたくんだと認識できないけど……」  隣で覗きこむ律佳にわかるよう、指をさす。 「俺、目いいんだよ! あんなところに登るなんて……なにして……」 「猫だ。木の上の方」  悪魔はいつのまにか同じように隣の窓を開けている。言われた通りに木の上に視線をあげると、黒くて小さい塊が見えた。あれが猫だろう。 「下りれなくなった猫を助けようと……!」  桜の木は大きい。10メートル以上はある。あんなところから落ちたら無事では済まない。  今すぐに木の下まで行きたいが、ここは3階だ。向かうとしても、廊下に出るから一度目を離すことになる。それも嫌だ。どうしようもなく、落ちないようにと願いながら見守るしかできない。  しかし、嫌な予感は当たるのか。猫を抱えた瞬間、ひなたはバランスを崩した。  反射的に窓から身を乗り出す。律佳の腕がそれを阻止した。 「ひなた……っ!!」  叫んでも、声は届かない。  落下していく。俺は……またひなたを守れなかっ…… 「任せて」  窓に足をかけた悪魔は自信に満ちた表情で、躊躇うことなく飛び降りた。  すると、悪魔の背中に真っ黒で大きな羽が広がった。  バサ、と一度その場で羽ばたいてから、そのままスピードを上げ一直線に桜の木まで飛んでいく。その姿は、大きな黒い鳥が飛んでいるようにも見えた。  地面に落ちる寸前でひなたを抱きとめた。再度上昇し桜の木の幹に着地した。    一瞬の出来事。何が起こったのか分からず、言葉を詰まらせた。  代わりに律佳がかすれた声をあげた。 「悪魔が、助けた……」  風に揺られて舞う桜の中に、闇のように黒いものが混じっている。異質な光景だった。 「……ッ!」 「亜紀! 僕も行くよ!」  あっけにとられていた頭が覚醒すると同時に、俺は一目散に教室を飛び出した。 *  誰かに抱きかかえられている感触。  ひなたは痛みを覚悟して強く閉じていた瞼をそっと開く。 「……ん? 痛くない……って桜花!?」  開いた視界には、今日知り合ったばかりのクラスメイトが微笑んでいた。ひなたは大きな瞳をさらに広げ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。 「大丈夫? ひなたくん」 「ああ……うん、大丈夫……猫も……桜花が助けてくれたのか……」  腕の中で丸まっている黒い毛並みの子猫と目を合わせた後、ひなたは周りを見渡す。でも目線は地面よりも高くにあり、桜の枝が広がっている。ここがまだ木の上であることに気がつく。だんだんと、今の状況がとてつもなく異常だ、と思考が追いついてくる。 「え、ここ木の上……? どうやって、助け……」  何が起こっているのか問おうと、もう一度クラスメイトに視線を移したとき、肩に真っ黒のものが見えた。ひなたに挨拶をするようにそれはバサ、と動いた。まるで鳥の羽みたいに…… 「……っ!? なに、は、羽……!?」 「あ、隠すの忘れてた。任せてとか言っといて、けっこうギリギリだったからなあ……」  途端に青ざめていくひなた。ひなたにとっては信じられない光景だが、悪魔にとって羽を見られるぐらい日常茶飯事。ひなたの様子を気にもとめず、軽く首をひねった。  そして、悪魔姿になったことで長くなった牙を覗かせて、にこりと笑った。 「……ひなたくん。俺はね、悪魔なんだ♡」 「あ……悪魔ぁ!?」  張り上げたひなたの声に腕の中の猫がピクッと耳を動かす。悪魔は焦りもせずそのままひとり言をつぶやく。 「うーん、早々にバレちゃった。ま、せっかく人間界まで来たのにここで死なれちゃ残念だし、助けてよかったかな」 「えぇ、あくま……!? どういうこと……だ……」  桜吹雪の中、悪魔の赤い眼が怪しげに光った。その眼を見つめたひなたの思考がぼんやりと濁りだす。 (あれ……なんか、おかし……なんも考えれな……) 「ちょっと眠っててね」 「ん……」  耳もとの囁きと同時にひなたの意識が落ちた。  自分の体にこてんと預けられた丸い頭に、悪魔は口づけを落とした。 「ふふ、眠った顔、無防備でかわいいねぇ」  白い首筋……きめ細やかな肌、少し透ける青い血管。  目に入ったそこに真っ赤な舌を這わせる。くすぐったいのか、ひなたは眠りながらも体を震わせた。  (そう、ここに俺は噛みついた……あまりにも美味しそうで……あぁ、何も変わっていない。今すぐにでも食べてしまおうか……♡ でもやっぱりまだ勿体ないかなぁ……どうしようね……♡)  悪魔は目の前の無防備な獲物を前にして、全身がゾクゾクと悦んでいるのを感じた。今すぐ獲物に齧り付きたい衝動と、ここで失っては惜しい、という相反する情動、そのものに興奮をしていた。    そのとき、腕の中の王子様のことを呼ぶ声が悪魔の耳に届く。足音とともにだんだんと大きく近づいてくる。 「あーあ、もっと堪能したかったけど……さすが騎士クン、ご到着が早いな」  元騎士団なりに鍛えているんだろう。足がお速い。  最後にもう一度、麗しく眠る王子様の額に口づけを落とす。  悪魔は羽をしまい、ひなたを抱えたまま桜の木から飛び降りた。

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