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第5話

 病室に2人きりとなり、改めて郎威軍(ラン・ウェイジュン)は、加瀬志津真(かせ・しづま)の眠るベッドに近付いた。  静かな寝息だけが聞こえる。  この息遣いが、彼の生きている(あか)しだと思うと、胸が締め付けられるほど愛しい。  威軍は、志津真の左側にある椅子を引き寄せて腰を下ろした。  窓側の右手は脱臼していると聞いているので、触れるのも怖かったが、布団の上にあった左手に、自分の手をソッと重ねた。  (暖かい…)  それを確かめると、威軍は志津真の左手を両手で包み込み、ギュッと握った。  手を握りしめ、志津真の寝顔を見詰め、次の瞬間、威軍は握った志津真の手に口づけし、そしてその手を、まるで祈るように自分の額に当てた。その陰で、威軍の長い睫毛(まつげ)が濡れ、頬を涙が伝った。 (あなたが、無事で良かった…)  これまで張り詰めていたものが、安堵したことでプツリと切れた威軍は、普段の冷静さを忘れて、ただ感情のままに涙した。 (もし、もしも…あなたを(うしな)っていたら…)  威軍は顔を上げ、志津真の顔を凝視した。 (私も、生きていられなかった…)  込み上げる感情が抑えきれず、威軍は腰を上げ、眠る志津真の乾いた唇に自分の涙の味がする唇を押し付けた。  そして、ゆっくりと体を離すと、それに呼応したように志津真の(まぶた)が震え、少しずつ開いていく。  目を覚ました志津真は、すぐそこに愛しい相手の顔を認め、反射的に笑顔になった。 「まさかこの歳で、王子様のキッスで目を覚ますとは、な…」  開口一番の軽口(ジョーク)に、涙に濡れていた威軍の頬も緩んだ。 「ばか…」  照れ隠しもあってそう言うと、威軍はもう一度志津真の唇を奪った。  今度は重ねるだけでは物足りず、甘く、激しく求め、そして志津真もまた、それに応えた。繰り返し、繰り返し唇を重ね、舌を絡め、息を継ぐのも惜しみながら、何度も口づけた。 「っ…ぅ…っは…あ…」「はぁ…はぁ…」  互いに呼吸を荒らげ、それでも満ち足りた幸せな気持ちで、2人は見つめ合った。 「ごめんな」  乱れた威軍の前髪を直しながら、志津真は「声優部長」の本領を発揮した甘い声で言った。 「大事なお前を、また泣かしてしもたな、俺は」  志津真は温かく、大きな掌で威軍の頬を包んだ。その温もりに威軍は身を任せて微笑んだ。 「もう、泣かさないで下さい」  甘えるように言った威軍に、相変わらず茶目っ気たっぷりの志津真は、左手1つで恋人を抱き寄せた。 「それは…約束できひんな。ベッドの中でのお前の泣き顔は、キライやない」 「ほんとうに…おばかさんなんだから…」  笑いながらポンと志津真の胸を叩いて威軍は身を起こした。 「あなたの怪我は、右肩の脱臼と右足首の骨折です。軽い脳震盪は起こしていましたが、検査の結果は問題無いようです」  次の瞬間にはビジネスモードに戻り、郎主任はキッチリと報告に入る。 「クライアントに重傷者はありません。軽傷者は治療済み、それ以外も診察と検査は済んでいます。部長の分も含め、治療費などの支払いの保険の手配はすでに総務が動いています。それから…」 「はい、はい、はい。そう、ヤイヤイ言うな。俺、起きたばっかりやのに」  志津真は(うるさ)そうに、郎主任の的確な報告を(さえぎ)った。 「そんなんは、何にも心配してへん。優秀な部下がいるからな」  そう言って、相変わらず人タラシな優しい笑顔を浮かべる。 「それより早く退院して、大好きな人に付きっ切りで看病して欲しいんやけど」  チャーミングな笑みを浮かべ、そんな可愛い事を言われて、威軍もいつまでも「人造人」と呼ばれる仕事用の顔をしていられない。 「確認して来ます」  ほんの少し赤い頬で、威軍は病室を出てナースセンターに向かった。 *** 「主任から連絡があって、部長の目が覚めたって!」  百瀬(ももせ)がスマホを握りしめたまま立ち上がり、オフィス中に聞こえるような大声で叫んだ。  残っている営業部員は百瀬と陳霞(チン・シア)くらいで、あとは応援の総務や経理のスタッフだったが、それでも全員がホッとして嬉しそうに笑顔を交わした。  そこへ、6階の総務の会議室で打ち合わせをしていた、営業部4班の馬宏(マー・ホン)主任が戻った。 「百瀬くん、部長は?」 「あ!馬主任!今、ちょうど郎主任から連絡があったところです!」  先ほどまでの緊迫感や悲愴感は一掃され、桜花企画活動公司(サクラ・イベントオフィス)は安堵が広がり、穏やかなムードに包まれた。  このオフィスは、美魔女で遣り手の女社長・額田凪沙(ぬかた・なぎさ)が引っ張っているのは間違いがない。それに総務や経理の部長も優秀で、部下たちからは慕われている。  だが、直接クライアントらと接する営業部の部長ともなると、それは対外的な看板であり、彼への信頼が他の営業部スタッフ、そして会社そのものへの信頼に繋がる。  官僚出身の加瀬部長は、その実績からも社外からの信頼は絶大だった。  そして、社内に対しては、彼が部下に寄せる信頼は絶対で、その上で部下のミスは何一つ文句を言わずに上司として責任を負ってくれるという器量の大きさがある。  自分たちの能力を信じてくれて、ある程度は任せてくれるものの、何かあれば絶対に守ってくれる、助けてくれる、という安心感を与える上司を、嫌う部下が居るはずが無かった。  部長の信頼に応えたい、と部下たちのモチベーションも上がる。結果、オフィスの業績も上がっていくのだ。  そんな精神的な支柱でもある上司に万が一のことがあればと、オフィス中が不安だった。  言うなれば、みんなの人気者である加瀬志津真部長を中心に、営業部はまるで1つの家族となっていた。家族の誰一人欠けてもみんな不安になる。  そんな部長の無事が知らされ、桜花企画活動公司のスタッフ全員が、心から喜んでいた。 *** 「念のため今夜一晩入院するか、自宅で静養するか選べるそうです」  病室に戻った威軍が言うと、さっそく志津真は体を起こした。 「帰るに決まってるやろ。入院なんかしたら、ウェイウェイに看病してもらえへんやん」  ニヤニヤして、どこまで冗談なのか分からない志津真の態度だが、言葉通りの本気で言っていることを、恋人だけは気付いている。 「では、退院手続きをしてきます」

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