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第9話

 床が濡れないよう準備した上に、威軍(ウェイジュン)は熱めの湯が入った洗面器を運んできた。  ベッドに座った志津真(しづま)は、脱臼した右肩を(かば)いながら病院で購入した安っぽいスウェットを脱ごうとしていた。  それを見た威軍は素早く洗面器を置いて、志津真に寄り添った。 「無理しないで下さい。私が手伝いますから」 「ん、ありがと」  上半身裸になった志津真を、威軍は温かいタオルで丁寧に拭いた。  脱臼した右肩の周辺は、内出血のせいで不気味な色に変色している。それ以外にも、あちこちに薄赤い打ち身の後がある。 「痛みますか?」  心配そうに聞く威軍に、志津真は優しく微笑む。 「大したことないよ。もうウェイウェイが触れたトコから治る気がする」 「またそんな…」  威軍が苦笑すると、志津真は慌てて真面目な顔で説明する。 「ホンマやって。日本語で治療することを『手当て』って言うやろ?こうやって手を当てると、治って欲しいって気持ちが届くんやで」  そう言って、タオルを握った威軍の手に、志津真も手を重ねる。 「ウェイウェイの手当てが、一番効果あると思う」  嬉しそうな志津真に微笑み返し、威軍はタオルを洗面器に戻した。 「さあ、パジャマを着て」  威軍は志津真のパジャマの上着を拡げ、痛みのある右手から袖を通させた。 「上手な看護師さんやな」  からかうように志津真が言った。言い返すことなく、威軍はただニコリと笑って、パジャマのボタンを留めた。 「下も…」  一度タオルを(ゆす)いで、威軍は視線を落とした。 「脱がしてくれる、看護師さん?」  足を投げ出し、甘えるように志津真が言うと、威軍も笑った。 「病院では、あのハンサムな男性看護師が全身を拭いてくれたんですか?」  冗談めかして威軍は言うが、志津真はキョトンとしている。 「え?そうなん?俺、ずっと寝てたし、知らんかったな~。ウェイがヤキモチ焼くほどのハンサムさんなんて、惜しいコトした~」 「何言ってるんですか、おバカさん」  スウェットとトランクスの下着を取り除き、先ほど、口で奉仕した場所を中心に威軍は綺麗に拭き取った。  着替えさせ、パジャマを整え、快適なように志津真を寝かせると、ホッとしたように威軍は布団を掛け、ベッドの端に腰を掛けた。 「少し寝て下さい。夕食が出来たら起こしますね」  柔和な笑みと声でそう言って、威軍は志津真の額に口づけした。 「なあ…」 「ダメですよ。もうしません」 「そうなん?」  拗ねた子供のよう目で見返す志津真に、威軍はクスクスと笑いだす。 「完治したら…、いっぱい、しましょうね」 「うわ~、すっごい誘惑!」  大げさに喜ぶ志津真が、あまりにも普段と変わりないのが威軍には嬉しかった。  いつもと同じ、志津真がいる。  いつもと変わらない、明るく、茶目っ気たっぷりの、可愛い恋人だ。 (いつも通りの「今日」で本当に良かった)  威軍は幸せを噛み締めた。 「私はこれを片付けます。何か欲しいものはありますか?」 「ん~、薬のせいかもしれへんけど、なんか眠い…。ちょっと寝るわ」 「はい。おやすみなさい」  しばらくは、大人しく目を閉じる志津真を見守っていた威軍だったが、ようやく穏やかな寝息を確かめると、静かに部屋を片付け、時計を確かめた。  事故が起きたのが午前11時半ごろ。10時過ぎに関空から上海浦東空港に到着したクライアントを出迎えて、市内に向けて高速を走っていた時のことだった。  搬送、治療、検査、そしてようやく退院してオフィスに立ち寄ったのが午後3時。  そして、この淮海路の服務式公寓に戻り、ようやく志津真が寝入ってくれた今は、間もなく5時になろうとしていた。  リビングに戻った威軍は、志津真の好きそうなデリバリーメニューのチェックをしてみたが、ふと思いついた。  もう一度、ソッと寝室を覗いて志津真の安全を確認すると、威軍は財布とスマホを持って音を立て無いように気を付けて部屋を出た。 ***  志津真が目覚め、近くに気配を感じて隣を見ると、そこには最愛の人が眠っていた。 (うわ~。相変わらずキレイな顔やなあ~)  出会って以来、何度もこの距離で、この寝顔を見ているはずなのに、それでも見惚れてしまうほど、志津真は威軍の美貌が好きだった。  男性にしては珍しい白く、滑らかな肌。黒々とした長い睫毛。顔の中心にある、計測したように真っ直ぐとした高い鼻梁。引き締まり、血色がいい唇は、触れると甘く、柔らかい。  仕事中は、隙の無い冷ややかな眼差しで、人を寄せ付けない「人造人」と呼ばれる「郎主任」なのだが、こんな穏やかな寝顔を知るのは自分だけだと志津真はしっかり自覚している。  その事実を、これまでも、これからも守り続けたいと思う。 (こんなにキレイで、甲斐甲斐しくて、いじらしくて、健気で…、とにかく、俺だけのカワイイ、ウェイ)  志津真は起こさぬように気を付けて、そっと指先で威軍の前髪を払った。 (こんな大事なものを(のこ)して、死ねるわけないやん)  いつまでも見飽きないというように、志津真は威軍の寝顔を幸せそうに見ていた。  その視線に気づいたのか、威軍がゆっくりと瞼を上げた。潤んだような黒目勝ちの瞳が、志津真のそれとぶつかる。  何も言わず、まるで磁気が働いたかのように2人は引き寄せられ、唇を重ねた。  何も変わらない。  いつもと同じ。  今の加瀬志津真と郎威軍にとって、何よりそれが幸せだった。

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