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第14話

「なあ、怒ってんのか?」  朝食の後片付けをするために席を立った威軍(ウェイジュン)に、志津真(しづま)は心細そうに問いかけた。 「え?」 「そやかて、そんな『いわくつきネクタイ』なんか、わざわざして…。怒ってるから、俺への当てつけなんちゃうの?」  何となくシュンとしている志津真が可愛くて、愛しくて、威軍は志津真に近寄った。 「私に、嫌われたくない?」  志津真は声に出さず、まるで子供のようにコクンと頷いた。  以前から志津真の子供っぽいところは気になっていた。威軍としては、もう少し、大人として毅然とした対応をして欲しいと思うこともあった。  もちろん、仕事の上ではこの上なく信頼のおける上司だ。クライアントや対外的な信用も高い。有能でありながら人当たりもよく、誠実で、明朗、人の気を逸らせない巧みさがある。オフィスの顔として貫禄さえ感じるほどだ。  けれど、たまにオフィス内を和ませるための軽妙な会話だけならまだしも、プライベートでの恋人への大人げのない態度が、正直、威軍には時折鼻に付いた。  それが、今回の事故のせいで、志津真を喪うかもしれないというショックを受けた威軍は、何かが自分の中で変わったように感じた。  志津真を大人げがないと思っていた自分自身もまた、また幼稚だったように思う。  今度のことがきっかけで、威軍もまた成長したのだった。  だから、こんな風に甘える中年の上司でも、心から可愛いと思えるようになった。 「私は、そんな性格の悪い事なんてしませんよ。当てつけだなんて…」  威軍はニコニコと笑いながら、キュッと志津真の鼻先を軽く()まんだ。 「痛っ!」  これは恋人の性格を疑った罰だ。 「昨日、着替えを取りに行った時に、ネクタイを忘れたんです。あなたのを借りて、誰かに何かを詮索されるよりは、未使用のネクタイを使おうと思っただけですよ」  そう言って、威軍はさっき摘まんだ志津真の鼻先に、チュッと軽くキスをした。  志津真は志津真で、こんな風に素直に感情を表したり、冗談めかしたスキンシップが出来るようになったりした威軍が嬉しかった。  他の誰も知らない、心を開いた威軍の笑顔が自分だけに向けられるのが幸せだった。 「では、そろそろ出勤しますね。午後からまた来ます」  威軍は微笑みながらそう言うと、今度は志津真の唇に口づけた。 「ん…」  重ねるだけのはずが、志津真に求められ、拒めなくなる。  唇を甘噛みし、舌を交わした。  恋人同士のキスをして、余韻を味わうようにゆっくりと威軍は離れた。 「行ってきます」  綺麗な威軍の笑顔を堪能した上で、志津真はチラリと赤いネクタイに視線を送った。 「見納めですよ」  威軍の言った意味が分からず、志津真は不思議そうに恋人の美貌を見詰める。 「このネクタイ、帰りにはしてないと思うので、これで見納めです」  ニッコリとした威軍だったが、やはり川村(かわむら)の影が付きまとうようなネクタイは、気に入らないのだろう。はっきりとは言わなかったが、心の内では、帰りにシュレッダーにかけてでも、原型留めず捨ててやろうと思っていた。 「かまへんよ。明日のネクタイは忘れんようにな」 「それは…」  今日はまだ木曜日。  本来、翌日が出勤日であるウィークデーに、郎威軍は恋人との夜を過ごしたがらない。  甘く、セクシャルな名残を引きずり、そんな空気を職場に持ち込むことに抵抗を持つ威軍は、公私のけじめとして、どれほど志津真が口説き落とそうとしても、拒んできた。  だが、そんな一途であり、頑固なところがある威軍が、昨日の事故のせいでその矜持を曲げることになってしまった。  威軍は、昨日の事は特別だと思っているが、志津真にとっては「平日にはお互いの家に泊まらない」という暗黙のルールが撤廃されたと思いたい。  しばらく見つめ合っていた志津真と威軍だったが、先に折れたのは志津真だった。 「ごめんな。朝から困らせて。その話は、また後でもエエし。とにかく、仕事頑張ってきて!」 「…何かあれば…」 「うん。困ったら、他の誰でもあらへん、ウェイウェイに連絡する」  優しい志津真に、威軍は少し胸が痛む。  相手は怪我人なのだ。不便もある。心細さもあるだろう。  しかも昨夜は、自分なりのルールを曲げて宿泊したというのに、今夜も、もう一泊と言うのが素直に受け入れられない威軍だった。 「行ってきます」  もう一度そう言って、威軍は志津真の自宅を後にした。 ***  出勤後、郎主任は社長室に呼び出され、昨日の事故対応の説明を受けた。 「保険や諸々(もろもろ)は、順調に手続きも進んでるわ。事故に遭ったクライアントも、今日は朝から元気に現地見学に行っているらしいし、問題なく、明日帰国してもらえそう」  ホッとしたように額田(ぬかた)社長が言うと、隣で総務の(ホワン)部長、経理の遊佐(ゆさ)部長も頷いた。 「来週は、他の市町村も続々下見に来るんでしょう?対応はどうなってるの?」 「こちらにあるのが、スケジュールとスタッフの最新シフト表です」  郎主任は機械的に、タブレットに入っている資料を社長に見せた。 「ん~と、5班はフル稼働として、能見(のうみ)3班と馬宏(マー・ホン)4班からヘルプが出るのね。3班、4班はそれでうまく回る?」  額田社長は、事情通の黄総務部長をチラリと見ながら、郎主任に確認する。 「もちろん、能見主任、馬宏主任とは打ち合わせ済みです。万が一、3班、4班で緊急の事態があれば、折田(おりた)1班がこの時期に蘇州のイベントに関わっているということなので、補助(サポート)に駆け付けて下さるとのことです」  抜かりの無い郎主任の準備に、社長も満足げで、総務部長、経理部長もいくつか細かい点を確認した上で、承認した。 「超過勤務が、出過ぎないように、な」  遊佐経理部長に釘を刺された上で、郎主任は営業部へと戻って行った。 「百瀬(ももせ)くん、問題は?」  クライアントのアテンドに出ている、アンディと白志蘭(バイ・チーラン)のコンビの代わりに、デスクワークを任された百瀬がパソコンから顔を上げた。 「今のところ、志蘭からも定時連絡以外ありません。午前中に会場見学と、主催者からの簡単な説明を受け、今、昼食会場へ向かっています」 「分かりました」 「午後からと明日のスケジュールに、今のところ変更はありません。帰りの飛行機の確認も済んでいます」 「了解です。ありがとう」  ホッとして、郎主任は自分のデスクに座り、パソコンを確認する。  今日の午後と明日のスケジュールを確認し、来週のスケジュールと承認されたシフト表を、上司の加瀬(かせ)部長に送った。 「部長が居ないと、ちょっと寂しいですよね」  作業が一段落したのか、自分の分だけでなく、郎主任の分もお茶を()れて、百瀬が持って来た。 「ランチを(おご)ってくれる人が、居ないからですか?」 「はい?」  郎主任らしからぬジョークに、一瞬呆気にとられた百瀬だが、すぐに気が付いて笑い飛ばした。 「やだ、もう~」  珍しく笑みを浮かべながら俯いた郎主任は、やはり今夜も恋人の許に泊まろうと思った。  自分もまた、部長が居ないことを寂しく思っているのだと改めて自覚していた。

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