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第20話

「ウェイ…」  志津真(しづま)威軍(ウェイジュン)を呼んで、部下たちはハッとした。  中国の習慣では、決して相手を1文字では呼ばない。  たとえ名前が1文字の人に対しても、1文字で呼ぶのは失礼だとされているのだ。例えるなら、「杜甫」さんに、「おい、甫!」などと呼ぶことは大変失礼で、絶対にしない。  それが許されるのは、配偶者か恋人だけなのだ。  そんな明らかにプライベートな呼び方をした部長に、一同は驚いたが、薄々2人の関係を知っていた部下たちは、そっとその場を離れる。 「行く前に、控室まで頼める?」 「はい」  両手の荷物を近くのテーブルに乗せ、言葉少なく郎主任は、加瀬部長の車椅子を押す。そして2人はそのまま、誰もいないバックヤードへ消えて行った。  それを見守る部下たちの目は穏やかで、ホッとしたようだった。 *** 「ウェイ、来て…」  2人きりになり、部長ではなく、恋人の志津真の声で求められ、威軍は車椅子の横に跪いた。それ以上余計な事を言わなくても、2人はギュッと抱き締め合った。 「ゴメンな。一緒に行けなくて…」 「いいえ。あなたが残って下されば、こちらの心配はしなくていいので助かります」  そう言って威軍は少し体を離して志津真の顔を見た。 「あなたの事の方が心配ですけど」 「もうほとんど治ってる。後の事はなんの心配もいらんから…、くれぐれも気ィ付けてな」  そのまま志津真が唇を求めた。  いつもの郎主任なら、勤務中に、こんな場所で決して受け入れるはずはない。だが今は、ただの志津真の恋人で、不安いっぱいの郎威軍だった。  触れるだけのキスから、艶めかしい恋人のキスまで堪能して、2人はソッと離れた。 「行ってきます」 「絶対、連絡してきてな」  真剣な眼差しで言う志津真に、威軍は誰にも見せない優しい恋人の笑顔で頷いた。 「お祖母様(ばあさま)の無事、祈ってるからな」 「ありがとうございます」  お互いに離れがたい気持ちを抱きながら、威軍が部屋を出る直前まで、2人は視線を逸らさなかった。 「タクシーが来ました」  郎主任が部屋を出るなり、アンディが声を掛けた。  石一海が、お土産のいっぱい詰まったバッグを2個渡すと、郎主任は会釈した。 「はい!これ」  百瀬も小さい紙袋を手渡した。 「这是你的午饭(主任のランチですよ)」 「你没有时间吃午饭(ゆっくり食べる時間無いだろうから)」 「好好吃午饭,打起精神来(ちゃんとランチ食べて、元気出して)」  紙袋の中身は、やはり各地のブースからかき集めたパンやお菓子やお茶だった。  こんな場合には、昼食も忘れてしまうだろうとの気遣いだ。確かに、そんなところまで考えが回らない郎主任だった。  部下たちに励まされながら、郎主任は頷き、アンディが呼んだタクシーに飛び乗った。 「请去虹桥机场(虹橋空港まで)」  荷物と一緒に、職場の家族とも言える上司と部下の気遣いをしっかりと受け止めながら、冷静さを取り戻した郎威軍は、家族へと帰宅すること電話を入れた。 ***  空港に着いた郎威軍は、1時間前にチェックインを済ませることができた。連休さなかのギリギリなので、たった一席取れたのが前方の、形ばかりのビジネスクラスだったのだが、それも緊急事態なので仕方がない。  手荷物に気を付けながら、ドリンクバーくらいしか置いていない、名前ばかりのビジネスラウンジで威軍は部下が用意してくれたランチの入った袋を開いた。  ペットボトルではなく、缶入りのお茶を入れてくれたのは助かった。ペットボトルのお茶は回収されがちだが、缶入りなら未開封なのが分かりやすいので保安検査場も通りやすい。ビジネスクラスのチケットというのも効果的だった。  何よりも、まず威軍は缶入りのお茶を開けて喉を潤した。あまりにもバタバタしていて、喉が渇いているのも気付かなかったほどだ。  それから改めて、自分の昼食を確認する。  海外からの観光客にも人気のメロンパン1個と、日本でも人気のデニュッシュ食パンが1枚、それに日本のお米の美味しさを宣伝するための小ぶりの塩おにぎりが2個、試供品の小さい梅干しに、漬物、塩昆布などまで入っている。  こういうものを、自分だけでなく仲間と一緒に食べることを楽しみに、必死で集めていた百瀬や石一海が、自分のために喜んで手放してくれたのだと思うと、妙に微笑ましく、嬉しく思う威軍だ。  人気のチョコや、おからクッキーなど、地方特産と言うより、日本らしいお菓子も入っている。  これらもまた、家族へのお土産になると、余分に入れてくれたのだろう。  威軍は、ラップに包まれた塩おにぎりを1個取り出し、口にした。  塩加減が良く、日本のお米の甘さや粘りが引き出されている。慣れない中国人の中には、この粘りのあるお米はベタベタしているとして嫌がる人もいるが、威軍はこの上なく美味しいと思う。  日本の物を美味しいと思えるのは、全て恋人の影響だ。  彼は今夜、1人で食事をするのでは無いだろうか。  1人で入浴し、1人で眠れるだろうか。  ずっと傍にいて、お世話をしてきた威軍は急に不安になる。  思わず、スマホを取り出していた。 (今、空港です。チェックインも済ませ、ランチをいただいています)  メールを送信した。  するとすぐに返信が来た。 (!)  そこには部長を取り囲んだ部下たちが、デリバリーのピザを手にして満面の笑顔で並ぶ写真が添付されていた。  思わず威軍の顔もほころぶ。 (また気前よく(おご)ってる…)  1人にしても、恋人は寂しくないのだと威軍はホッとした。  搭乗時刻になり、お茶を飲み干した威軍は、ビジネスラウンジを後にして、チケットにある搭乗口へと向かった。

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