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第21話
北京空港に到着した郎威軍が、スマホの電源を入れたと同時に、着信が来た。
心配した恋人からかと期待した威軍だったが、それは見知らぬ番号からだった。
「喂(もしもし)」
「好久不见!(ひさしぶりだな)」
「你是谁(どちらさまですか)?」
「你忘了吗?我是何夏 (忘れたか?何夏だよ)」
「!何夏哥吗(何夏兄さんですか)?」
それは実家の近所に住んでいた幼馴染みの、何夏だった。
何夏は威軍の2歳年上で、いわゆる近所のガキ大将タイプだったが、弱い者いじめなどしない、みんなの憧れの先輩で、ヒーローだった。
彼は今、北京の三ツ星ホテルでベルボーイ長をしていると聞いている。リーダーシップがあり、面倒見がいい何夏には、若いベルボーイたちのまとめ役は相応 しいと威軍も思っていた。
〈今、到着したんだろ?〉
〈どうして知っているんですか?〉
〈俺も空港に居るからさ〉
〈え?〉
〈お前の母さんに頼まれた。飛行機の便名も教えてもらって、迎えに来たんだ〉
上海を出発する前に、実家に、これから帰ると連絡した威軍だった。電話に出たのは父親だった。おそらくそれを聞いた母親が、近所のよしみで何夏が今日、北京から帰るのを知っていて、迎えを頼んだのだろう。
そういう昔ながらの近所付き合いがある、古き良き田舎に、威軍の実家はある。
何夏兄さんの指示通りの出口から出た威軍に、声を掛ける人が居た。
「威軍!」
振り返ると、そこにはガキ大将の面影を残す、スマートな青年が立っていた。ポロシャツにジーンズのラフなスタイルだが、その辺りの若者と一線を画す清潔感が、彼を際立たせていた。さすがはホテルマンだ。
「夏哥(夏にいさん)!」
気が付いた威軍が駆け寄った。
〈すっかり都会っぽいじゃないですか〉
懐かしそうに威軍がそう言うと、不満そうに何夏が答える。
〈そんな高級そうなスーツ姿のお前に言われたくない〉
さすがに長くホテルマンとして働いていると、客の身に着けている物には敏感になる。何夏もまた、一目で威軍のスーツが、ヨーロッパのハイブランドでは無いものの、丁寧な仕上げのオーダーメイドだと気付いていた。
〈元気そうだな〉
涼し気な目元の、いかにも正直そうな、子供の頃と変わらない何夏が威軍には嬉しかった。
故郷に帰って来たのだと実感する。
〈行こうか〉
〈どうやって帰るんですか?〉
〈俺の車で〉
自慢げに言う何夏を、威軍は頼もしそうに見つめる。いつになっても、いくつになっても、何夏兄さんは何夏兄さんなのだ。
〈渋滞してるんじゃないですか?〉
〈高速のほうは、な。うちのほうは逆に空 いてるよ〉
そう言いながら駐車場に向かって歩き出した何夏の後を、威軍も歩いた。まるで子供の頃と同じだ。何夏兄さんの後について歩けば、何の心配も無かった。
〈お土産、俺の分もあるんだろうな〉
冗談めかして言いながら、何夏は威軍の両手の荷物を持ち、中国らしく全体が汚れた中古の国産車のリアシートに置いた。
社用車だけでなく、自家用車もピカピカに磨き上げられている日本の車からは、考えられないような泥だらけのボロボロの車だ。それでも、この北京で自家用車を持てるだけでも十分なステータスだと言えた。
〈もちろんですよ。急なことだったので、職場で用意した物ばかりですが…〉
そこまで言って、威軍は自分がなぜ帰って来たのかを思い出した。飛行機の中では祖母の事ばかり考えていたのに、何夏の顔を見た途端、自分の子供の頃を思い出していた。
〈お祖母 さんのこと、聞いたよ。病院へ行ったのが早くて良かったって〉
〈うん…〉
威軍の父が電話で言ったことによると、自宅で急に苦しみだし、意識を失った祖母を、近所の人が農作業用のトラックで運んでくれたのだと言う。田舎の事で、救急車など待っていられないし、日本と違って有料なのだ。
病院での診断は、心臓発作だったが、処置が早かったため大事には至らず、しばらく入院する必要はあるが、連休後に退院するとのことだった。
中秋節の連休のせいで一時退院する患者が多く、病院が空いていたのも幸運だった。
〈わざわざ迎えに来てもらって、すみません〉
右側の助手席に座り、改めて威軍がお礼を言うと、何夏が昔ながらの鷹揚さを見せて笑った。
〈どうせ今夜、帰るつもりだったんだ。気にするな〉
〈いつもは、ホテルの稼ぎ時で中秋節には休みが取れないんじゃ?〉
威軍もそうだが、連休に合わせて休める仕事とそうでない仕事があるのは日本と同じだ。
ホテルのベルボーイ長である何夏が中秋節の休みに合わせて帰省するなど何年かぶりで、威軍はさらに久しぶりだ。
それぞれ休みをずらして取るので、2人が会うのは10年以上ぶりだった。
〈今年は特別なんだ〉
その言い方が、少し誇らしげなことを威軍は感じた。
〈特別って?〉
聞き返す威軍を待っていたように、何夏は嬉しそうに笑った。
〈フロント係に昇進するんだ〉
ホテルの外で雨風にさらされながら重い荷物を運ぶベルの仕事は重労働だ。若いうちならともかく、年を重ねるほどに厳しくなる。
特に、大学では観光学科を卒業し、ホテルサービスと英語を勉強した何夏は、一生ベルでいるつもりはなく、いつかは内勤へ異動するのが夢だった。
〈おめでとう!何夏兄さん〉
威軍も我がことのように喜んだ。
〈両親にそのことを報告するよう、休みを調節してもらえたんだ〉
この言葉だけでも、何夏が働いているホテルで大事にされているのが分かる。真面目で能力が高い何夏のことだ、信頼され、尊敬され、重宝されているのが目に見えるようだ。
家族団欒の中秋節に大事な昇進を家族に報告できるよう、同僚たちが何夏のために休みを調整してくれたのだと、威軍は察していた。
自分もまた、今回の事で同僚たちには迷惑や心配をかけたと思う。だが、それを嫌がる仲間は1人もいない。それを実感して、威軍は自分の幸運を噛み締めた。
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