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第25話

 いきなり威軍(ウェイジュン)の部屋のドアが開いた。 〈ノックくらいすべきでは?マナーの悪いホテルマンだなあ〉  珍しく威軍がそんな冗談を言うと、一瞬「え?っ」となった何夏(ハー・シャー)だったが、すぐに子供のような笑顔になる。 〈今、日本語で話してなかった?〉  言われて威軍はドキリとする。 〈聞いて分かるんですか?〉 〈いや、意味は全然。でも何言ってるか分からなくても、日本語っぽい、朝鮮語っぽいっていうのは分かるだろ〉  最後の言葉が聞かれていたかどうか分からないが、意味を悟られずに、威軍はホッとした。 〈オフィスへ連絡していたんです。イベントの途中で抜けてきたので〉 〈そうか、日本の会社だもんな、日本語で話すのか〉 〈上司が…、日本人ですから〉  そう言った威軍の口元に、意味ありげな笑みが浮かんだのを、何夏は気付かなかった。 〈それより、疲れたんじゃないか。こんなに人が押しかけて〉 〈そうですね。すっかり珍獣扱いですよ〉  苦笑する威軍に、何夏はかつての兄貴分の顔になり、悪戯を企むように小声で言ってくる。 〈抜け出さないか?〉 〈え?〉 〈俺んちのと、お前んちの食べ物と、ビールは調達して来た。2人で抜け出そうぜ。話したいこともあるし、な〉  確かに、上海を飛び出し、やっと帰宅したと思えば、人に揉まれてホッとする暇もなかった。少しくらい休んでもいいだろう、と威軍も頷いた。 ***  郎威軍と何夏は、幼い頃によく皆で遊んだ溜池(ためいけ)のほとりにやって来た。  池の周囲は(ひら)けていて、邪魔をする木陰なども無く、夜空が広く、月が良く見える。明後日の中秋節を控え月はほぼ満月で、周辺を明るく煌々と照らしていた。 〈いい月夜だな〉 〈そうですね〉  青島(チンタオ)ビールの瓶を受け取り、威軍と何夏は、喉を潤した。 〈お前んちにあったコレ、美味いな〉  そう言って何夏は、大連土産の日本式「のしイカ」を摘まんだ。辛い物が多い北京の酒肴に慣れた舌に、甘辛い味は新鮮で、余計に美味しく感じるのだろう。  少し空腹感を覚えた威軍は、何夏はが自宅から持って来たらしい、作り立ての小ぶりの肉まんを手にした。日本の肉まんより小さく、上海の小籠包くらいの大きさの肉まんは、天津の名物だ。  さざ波の立たない溜池は、鏡のように夜空の月を映し出し、こんな何も無い田舎の景色にしては、芸術的で美しいと威軍は思った。  特に今夜は池に映る月が美しく、威軍はいつかここへ志津真を連れて来ることを考えていた。  何も無い田舎だけれど、ここで自分が生まれ育ったのだ。そのことを愛する人に教えたい。知っていて欲しい。  そして一緒にこの景色を「美しい」と思って欲しかった。 〈本当は…〉  急に落ち着いた声で何夏が口を開いた。 〈本当は、ここへ連れて来たい人が居たんだ〉  威軍は、何夏が自分と同じことを考えていたことに驚いて振り返った。 〈恋人…ですか?〉  威軍が静かに訊ねると、なぜか何夏は少し寂しそうに笑った。 〈ホテルの…ハウスキーパーなんだ〉  職場恋愛…威軍はふとそんな言葉が浮かんだ。自分と同じだと思う。 〈青海省から来た…ウィグル族の子で、まだ20歳なんだ…〉  威軍が今32歳なので、2歳年上の何夏は34歳。少し年が離れすぎているようだが、威軍と恋人も10歳近く離れている。 〈年が離れているのは分かってる。でも、苦労している分、しっかりした娘なんだ。頭も良くて、料理上手で、気立てがいい〉 〈好きなんですね〉  何夏の気持ちが威軍にはよく分かった。 〈貧しい子だし、若すぎるし、知っている友人たちは、みんな反対してくるんだ。これからフロント係に出世する俺には相応(ふさわ)しくないって〉  地方の貧しい少数民族出身の若者は、地元に居ては弾圧を受け、都会に出て来ても差別的な扱いを受けることが多い。もちろん大学進学のために都会へ出てきたような子は別だ。成績によっては尊敬され、一目置かれ、卒業後も成功する者もいる。  だが、出稼ぎに出てきたような娘たちは、安い賃金でこき使われる。純朴な彼女たちを騙して、非合法ないかがわしい店へ売り飛ばす輩もいる。国内ならまだマシな方で、過酷な状況で海外に売り飛ばされることさえあるという。  何夏が務めるホテルのメイドとして働くという娘であれば、身元のしっかりした信頼のおける娘に違い無い。  それでも、何も知らない者たちは、これから出世しようという何夏との結婚を目的に近付いた、金目当ての卑しい女と決めつけているらしい。 〈本当は、今日、ここへ連れて来て、両親に紹介したかった。この池のキレイな景色を見せたかった。俺の故郷を気に入って欲しかった…〉  それ以上は胸が詰まって言葉が出ないのか、何夏は急にビールをごくごくと飲んだ。  自分と同じだ、と威軍は思う。  何夏もまた、この美しい池に連れて来たい相手がいた。  彼女は少数民族出身のメイドで、フロント係に出世した何夏には格差のある相手。職場の仲間からも、おそらく家族からも反対されることは分かっている。  それでも、何夏は彼女が好きなのだ。  勇気が持てない何夏は、今回の帰省に彼女を連れて帰ることが出来なかった事を後悔している。  せめて彼女のことを家族に話すべきかどうか、迷っている。  威軍もまた、恋人の事を両親に告げるべきかどうか悩んでいた。  相手が同性の日本人だとは、言い出せなかった。  それに、今回は祖母の事もある。  両親に告げるということは、祖母の耳にも入るだろう。病床の祖母を傷つけたり、苦しめたりしたくはない。  ただ、愛しているだけなのに。  愛する家族にもそれを認めて欲しいだけなのに。  どちらも愛しているから、どちらかだなんて選べない。  同じ胸の痛みを抱いて、何夏と威軍は静かに月明かりの下、並んで座っていた。

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