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第26話

 翌月曜日の朝、(ラン)一家は麓の街にある、この辺りでは一番大きな総合病院に向かった。祖母が運び込まれ、今も入院する病院だ。  父が近所の友人から借りた車で、威軍(ウェイジュン)は初めて父の運転する車に乗った。 〈父さんが、車の免許を取ったとはね〉  助手席の威軍が言うと、後部座席の母が呆れたように言った。 〈青島(チンタオ)は坂道が多くて、年を取ったら歩くのが大変だ、なんて…。年寄りの運転の方がよほど心配だわ〉  父が免許を取得した理由を、母にはそう説明しているのだと威軍は察したが、おそらく本当のところは違うだろう。  父は高中の物理の教師をしているが、もともと機械工学的なことが好きなのだ。本当は自動車修理工になりたかったのだと、実は子供の頃の威軍にだけ打ち明けたことがある。  きっと父はこの歳になって、やっと自分の車を持ち、手を加える経済的、時間的余裕が出来たので、夢を叶えたのだと威軍は思う。 〈最初は青島から車で帰るなんて言い出して、お義母さんにお願いして、なんとか止めさせたのに…〉  祖母の活躍を思い出してか、母親が少し寂しそうにするのを威軍は同情的に見守るしか出来ない。 〈土産(みやげ)の月餅と、菓子は十分にあるが、昼飯(ひるめし)はどうする?〉  話を逸らそうとしてなのか、急に思い出したように父が口を開いた。 〈病院の近くに地元では有名なレストランがありましよね〉  威軍が記憶をたどりながら言うと、両親ともに、まだその店はあると答えた。 〈じゃあそこで持ち帰り用の料理を買って、おばあちゃんと一緒に病院内で食べましょう〉  あっさりと威軍は言ったが、母親は呆れたような声を上げた。 〈冗談じゃないわよ。確かにあの店はこの辺じゃ一番美味しいと評判だけど、お値段のほうも一番高いのよ〉 〈お金のことは心配しないで。私が全部払います。普段、あまりお金を使わないし、こんな時くらい贅沢しようよ〉  母の言う「この辺りで一番高い」は、上海では格安店のレベルだ。近い北京で比べてさえ、決して高級店の価格帯では無い。 〈せっかく威軍が親孝行したいと言ってるんだ。今日くらいは威軍に出してもらおうじゃないか〉  父親がそう口添えすると、実はまんざらでもない母親は、仕方ないといった態度を崩さずに頷いた。  レストランに到着したのは10時過ぎで、昼食には早いため、12時に料理を病室にまで配達してもらえることになった。渋っていたはずの母だが、料理の注文となると積極的になり、義母の好きな物を、味付けまで細かく指示をするほどだった。  改めて車に乗り、無事に病院内に駐車もして、家族3人で荷物を分担して運んだ。 〈ウェイジュン!私のウェイウェイや!〉  真っ白い病室は6人部屋で、祖母は通路側の薄暗いベッドの上に居た。 「奶奶(おばあちゃん)!」  祖母は満面の笑みで威軍を迎えた。その笑顔は元気そうで、威軍はホッとした。 〈良く帰って来たね、威軍。会いたかったよ〉 〈心配したよ、おばあちゃん〉  威軍は荷物を置いて、祖母のベッドの端に腰掛け、小さくなってしまった祖母を抱き締めた。 〈大きくなったねえ。立派になったよ、威軍。お前たちもそう思うだろう?〉  昨日帰った両親にはすでに会っていた祖母は、威軍の帰省が嬉しくてならないようだ。  大喜びしている祖母の様子に、威軍自身も思い切って帰省して良かったと思い、上司や部下たちに改めて感謝した。  その一方で気になることがあった。 〈おばあちゃん、すぐに退院できるの?〉  真顔になって聞く威軍に、子供の頃の勤勉な優等生の面影を重ね、祖母はますます目を細める。 〈連休中はちゃんとした検査が出来ないらしいの。検査の結果次第では、すぐにも帰れるそうなんだけど…〉  威軍の母も不満そうに言う。 〈無理に今退院して、もし次に具合が悪いとなっても病床が確保できるかどうか分からないと言われているんだ〉  父親も残念そうにそう言って、ベッドの上の自分の母親の顔を見た。 〈いいんだよ。そりゃうちに帰って、威軍に私の料理を食べさせたいよ。でも、こうやってここで静かに家族だけで過ごすのも、たまにはいいもんさ〉  祖母は気丈にそう言いながら、もう一度、自慢の孫を抱き締めた。 〈おばあちゃん…〉 〈本当に、威軍が帰って来たんだねえ〉  しみじみと言う祖母に、威軍は胸が締め付けられる思いがした。 〈ちょっと待っていて下さい〉  そう言って、急に威軍は立ち上がり、病室を出て行った。  呆気にとられたようにそれを見送っていた両親だが、すぐに気を取り直し、威軍が送ってくれた「スタバの月餅」を取り出したり、そのほかの菓子などを同室の人に配ったり、着替えを入れ替えたりと忙しく動き始めた。  それをおっとりと見守りながら、祖母は威軍の成長に想いを馳せていた。  暫くして、威軍が数人の看護師と共に病室に戻って来た。 〈どうしたの、威軍?〉  きょときょとする祖母に、威軍は優しく微笑みかけた。 〈病室を変わるんだよ、おばあちゃん〉  急なことに、祖母同様にオロオロしながら母が聞き質す。 〈どういうことなの、威軍。部屋を変わるだなんて…〉  その間にも、威軍は祖母を車椅子に移乗する看護師の手助けをしている。 〈どうって。個室が空いているっていうから、おばあちゃんの病室をそっちにしてもらうことにしました〉  当たり前の事のように言う威軍に、今度は父親が聞き返す。 〈個室って、そんな…。いくらすると思っているんだ〉 〈私が全て支払います。とりあえず今週分は先払いしてあるから。それまでに退院するようなら、余った分はおばあちゃんの口座に戻るようにしてある〉  テキパキとした行動に、両親も返す言葉が無い。最初は驚いていた祖母も、孫の行動力とそれを支える経済力を自慢に思った。 〈おばあちゃん、今度の部屋は特別室で、部屋にミニキッチンやソファーセットもあるし、大きなテレビもあるんだよ〉 〈嬉しいねえ。では、みなさん、お世話になりましたね。失礼しますよ〉  同室の病人たちに、虚栄心を満たした表情で別れの挨拶をすると、祖母は孫の押す車椅子で、陰気な相部屋を後にした。  明るく広々とした特別室は快適で、祖母はもちろん両親までも浮かれた様子だった。  ベッドに移り、手伝ってくれた看護師たちに月餅や日本の限定菓子などを、イケメンの威軍が配ると、彼女たちも嬉しそうに、「これからも何でも言って下さいね」と、頬を赤らめながら言って、名残惜しそうに去って行った。 〈おばあちゃん、後でお昼ご飯の出前が来るからね。もちろん、おばあちゃんの手料理ほどでは無いのは分かっているけれど、それでも、この部屋でみんなで食べたら、きっと美味しいよ〉  威軍の言葉に、ベッドの上の祖母は涙さえ浮かべて孫の手を取り、何度も「ありがとう」を繰り返した。

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