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第28話

 両親が材料を持ち帰ると、祖母はさっそく孫に自慢の料理を伝授し始めた。  車椅子に座ってあれこれと指示をする祖母は、なんとももどかしい様子だったが、それでも何とかそれらしいものが出来た。 〈お、母さんの味だな〉  父が試食を買って出ると、一口目からそう褒めた。 〈いいや、まだまだ。もっと経験を積まなくちゃね〉 〈これから何度でも、おばあちゃんに教えを請いに来るよ〉  出来上がった料理をタッパーウェアに詰めながら威軍(ウェイジュン)は笑った。  そうだ、仕事や恋人にかまけるばかりではなく、もっと祖母に、家族に会いに来なくては、と威軍は心に決めていた。  そうすることで、いつかきっと恋人のことを打ち明けても分かって貰える日が来るのだ、と信じていた。 〈お義母(かあ)さん、威軍が上海から送ってくれた月餅(げっぺい)は、明日の中秋節当日に開けましょうね〉  たっぷりの昼食に、カシューナッツ炒めの味見までして、もうこれ以上食べられないとなった郎一家は、明日の中秋節に備えて、数種類の月餅を並べた。  明日こそ中秋節の当日で、家族そろって月餅を食べ、家族の円満と健康と幸せを祈るのだ。 〈もう夕食も食べられないくらいだよ。お前たちも、もうお帰り。明日の夜も、ここで食事をしてくれるんだろう?楽しみにしているから、今日はまだ明るい内に帰って、明日の仕度をして来なさい〉  そう言われて、祖母の病室を追い出されたのは午後4時の事だった。 〈明日の夕食の準備はしてあるんだろう?〉  そう言うと母がちょっと考え込んだ。 〈アヒルの丸焼きはいつものお店に頼んであるし、料理は揃っているけど、果物でも用意しておいた方がいいかしら。特別室の個室だもの。誰かがお見舞いに来た時に、みすぼらしいと思われたくないわ〉  両親が、そんな相談をしている時だった。 〈あ、ごめんなさい。先に行って〉  威軍のスマホが鳴り、相手を確認すると急いで誰も居ない廊下の外へ急いだ。 〈駐車場で待ってるぞ〉  父の声に頷き、威軍はようやく電話に出た。 ≪ウェイ、どうや?≫  それは間違いなく、心配そうな恋人の声だった。 「祖母は元気です。ご心配おかけしました」 ≪良かったな≫  まるで自分の事のようにホッとした声で言う志津真(しづま)に、威軍もまた安堵する。  たった一日離れていただけなのに、慌ただしい別れ方をしたせいか、ずっと会えなかったような気がした。  いつも傍に、一緒にいるのが当たり前になっている…。  そんな恋人と離れて寂しくないはずが無い。威軍は、心から志津真に隣に居て欲しいと思った。 ≪なあ、ウェイ…。怒らんと聞いてや≫  黙り込んだ恋人をどう思ったのか、志津真が言いにくそうにおずおずと口を開いた。 「なんですか?」  何か仕事の上で問題でも起きたのか、それとも療養中の志津真を1人にしたことで、怪我が悪化でもしたのだろうか、威軍は(はや)る気持ちで志津真に聞き返した。 ≪俺…今、北京のホテルに居る≫ 「?」  訥々(とつとつ)と告白した志津真に、威軍は驚いて返す言葉が無い。  どうして、上海で仕事をしているはずの加瀬部長が北京にいるのか、理由が分からない。 ≪お前を追いかけて、北京まで来てる!≫  威軍の返事がない事をどう思ったのか、堰を切ったように志津真が早口で言い切った。 「どういうことですか?」  さすがの郎主任も愕然として状況が理解できない。 「どういう意味なのでしょうか?」  思わずもう一度聞き返していた。 ≪迷惑かもしれんとは思ったけど…。じっとしてられへんかった。仕事休んで、さっき飛行機で北京に着いた。今、ホテルに着いたとこや≫  志津真の切羽詰まった気持ちは威軍にも伝わる。  だが、仕事も何もかも放り出し、威軍を追いかけてきたとは、どういうことなのか、威軍は混乱する。 ≪ウェイウェイの家族の事なら、俺の家族も同じと思った≫  志津真の一言に、威軍も狼狽する。 ≪分かってる。今の俺には何にも出来ひん。けど、…少しだけでもお前の近くに居たかったんや≫ 「…!…」  恋人の深い思いやりに、威軍は胸がいっぱいになった。  自分自身、志津真に傍に居て欲しいと思っていたのだ。それと同じ思いで、志津真は行動してくれた。何よりも、恋人のことを優先すべきだと決断した、志津真の心意気を感じる。  それが嬉し過ぎて、幸せ過ぎて、威軍は感極まってしまう。  志津真が恋しい、志津真が愛しい、そんな思いが全身全霊に伝わる。 「自分も怪我してるくせに…」  今すぐ、志津真に会いたかった。  会いたくて、顔を見て、触れて、愛し合いたいと思った。 「おバカさんです…ね…」  威軍の声が泣いているのに気付いた志津真は、ただでさえ魅惑的な声で、物柔らかな言い方で応えた。 ≪恋したら、みんなバカになるって言うやん≫  自他ともに厳しく、公私のけじめを付けたがる威軍に、仕事を休んでまで追いかけてきたと言えば、呆れられるか、叱られるかと思った志津真だった。  しかし、電話の向こうの威軍が泣いているのは、決してバカな恋人が悲しいからではないことを知っている。  ちゃんと自分の誠意が伝わった事が、志津真も嬉しかった。会いに来たことが間違っていなかったと確信した。 「ホテルは、どこですか?」 ≪まさかの北京飯店。15階のエグゼクティブルームやで≫  スイートの次に高級な部屋に、威軍は驚いた。 「なんで、そんな無駄遣いを!」 ≪違うねんって!知ってるホテルは、全部連休で満室で、キャンセル待ちでやっと取れたんがココしか無かったんやって。嘘やと思ったら、百瀬に訊いてくれてもエエし!≫  確かに、連休中の北京で、志津真のような贅沢を知る日本人が耐えられるようなホテルは満室かもしれない。  歴史的にも有名で、西側の部屋からは故宮も一望できるという立地の良さもあり、兼ねてから志津真も一度は泊まってみたいと言っていたのが「北京飯店」だった。だが、仕事上の兼ね合いで、どうしても日系ホテルに宿泊することが多く、これまでは志津真の希望は通らなかった。  今回のプライベートな宿泊で、ようやく念願のホテルに泊まれたというのなら、志津真も満足だろう。 「2時間待って下さい。夕食は一緒に食べましょう」  威軍がそう言うと、一瞬息を呑んだ志津真だったが、すぐに嬉しそうに言った。 ≪待ってる。ウェイが来てくれるまで、ずっと待ってる≫  電話を切った威軍は、すぐに駐車場で待つ両親のもとに急いだ。 「爸(父さん)!」 「怎么了(何だ)?」  既に車内で待っていた両親は、威軍のただならぬ様子に慌てた。 〈おばあちゃんに何かあったの?〉  問いかける母を無視して、威軍は助手席に飛び乗り、叫んだ。 〈駅まで送って下さい!今すぐに〉 〈駅?〉 〈すぐ、北京に行きます〉  息子の気迫に押され、父はエンジンをかけ、車をスロースタートさせた。 〈北京で、一体何が?〉  呆気にとられた父の質問に、威軍は目を輝かせ、頬を染め、自信に満ちた態度で答えた。 〈どうしても、会わなければいけない人が待っているんです〉

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