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第33話

 ホテルを出て、北に向かうと有名な繁華街の王府井(ワンフーチン)大街。昨夜、地元の威軍がおススメの「羊肉涮锅(羊のしゃぶしゃぶ)」を食べに行ったのもこの近くだ。  今朝は、反対に南へ向かう。  天安門広場へ通じる前門をさらに南へ行くと、大柵欄(だいさくらん)と呼ばれる地区がある。清朝の時代には賑わった色街で、いわば下町の繁華街だ。  一時は(さび)れたものの2008年の北京オリンピックをきっかけに、再開発された地区の1つだった。  過去の栄華を彷彿とさせるレトロな街並みに一新され、往年の路面電車も観光用に新設された。外国人観光客というよりも地元や国内の観光客が往時を懐古するレトロな観光地区になっている。 「有名な包子(パオズ)店があるんです。あの慈禧(じき)太后の好物だったことで有名なんですよ」 「それって、西太后(せいたいこう)のこと?」  日本では映画やドラマで知られる「西太后」という呼び名は、中国ではほとんど使わない。  清朝を崩壊に導いた悪女として描かれることが多いが、近代化を目指した改革派が植え付けようとした悪いイメージが強く伝わっただけで、当時の庶民からの評判は悪くなかったという。  彼女の功罪は別にして、食通であったことは間違い無かったらしい。  西太后の好物であったという小さめの肉まんといったサイズの包子と、チキンスープの朝食に、志津真は大いに満足した。口の肥えた志津真であるが、高級な食べ物が好きなわけでは無い。長い歴史を持ち、多くの庶民に愛された、本物の味を、大事な人と食べることもまた愛していた。  朝食を終え、散策し、オフィスの部下たちへのお土産を選んだり、午後から行く予定の祖母への見舞いの品を見繕ったりして、ちょっとしたお買い物デートを楽しんだ。 「なあ」  一旦ホテルに戻って、威軍の着替えなどの荷物を持って、そこからタクシーをチャーターして、威軍の祖母が入院する病院に向かうことになっていた。  そのホテルに戻る途中、志津真が考え込みながら威軍に声を掛けた。 「なんです?」 「これから、ウェイウェイのご家族に挨拶するんは、『職場の上司』なん?」  威軍は志津真の言わんとすることに、ハッとした。 「俺は…、構へんねん。ウェイウェイが、まだ心の準備できないなら、上司としてでもご家族に会えるのは嬉しいし…」  志津真はそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。 「むしろ、『恋人』として紹介するのがしんどいなら、無理せんといて欲しい」  威軍の気持ちと立場を思いやった言葉だった。  子供っぽい言動も多い加瀬部長なのだが、こういう対人スキルや社会人としての配慮は、さすがに(もと)官僚だけあって(そつ)がない。  そんな上司を信用するし、尊敬もしている。そして、恋人として愛されているのだと、この上なく安心する。 「『恋人』として拒否されたらそれまでやけど。初対面が『上司』としてなら、例え最初は嫌われても、いつか『恋人』として挽回するチャンスがあるんとちゃう?」  ホテルの前で立ち止り、2人は見つめ合った。  茶目っ気たっぷりの、愛嬌のある、親しみやすい、「人タラシ」と呼ばれる加瀬志津真の魅力的な笑顔がそこにある。 「…ごめんなさい」  耐え切れず、威軍が目を逸らした。  本当は、志津真を恋人として家族に紹介するつもりだった。そのせいで、祖母や両親を失望させ、家族を失っても仕方がないと思っていた。  けれど、その決断を先延ばしにしていいと最愛の恋人が許してくれた。それが、威軍をホッとさせた。  それでも、恋人には失望させてしまうはずだ。今の威軍に出来ることは、謝ることだけだった。  心を痛める威軍を、今すぐここで抱き締めて慰めたいと思った志津真だったが、さすがに場所が場所だけにそれは我慢した。 「おばあ様、俺のお土産、喜んでくれはるかなあ」  そう言いながら、志津真は北京飯店の部屋に戻って行った。  キッチリとしたスーツに着替えた加瀬部長は、お見舞いの品の入った紙袋を持ち、北京飯店の前で郎主任と共にタクシーを待っていた。  アプリで呼んだ流しのタクシーではなく、ホテルのコンシェルジュに頼んだチャータータクシーだ。北京市内を出て郊外を目指すため、事前に交渉をした信用できるタクシーを用意するのが定石なのだ。 「祖母の入院する病院まで、1時間くらいかかります」  時刻は11時半になるところで、昼食は病院到着後になるだろう。 「昼ご飯、なんか買っていく?」  タクシーが走る賑やかな通りを、志津真はキョロキョロしながらそう言った。  せっかくの北京だ。何か美味しいものが無いかと、食通のアンテナを張っているのだ。 「病院の近くに、そう悪くないレストランがあるんです。そこで食べてから病院へ行きましょうか?」 「そんなら、持ち帰りにしてもらって、一緒に病院で食べたらエエやん」  志津真はさらりとそう言ったが、威軍は少し感激した。  まるで本当の家族のように、何の躊躇もなく病院で食事をすると言ってくれたのが嬉しかった。 「いいんですか、病院で食事なんて」 「なんで?おばあ様、イヤがらはる?」  心配そうに聞き返す志津真に、威軍は優しく微笑んだ。 「そんなこと、ありません。祖母なら、きっと歓迎してくれます」 「そやな。ウェイウェイのおばあ様やもんな。絶対に賢くて、エエ人に決まってる」  明るくカワイイ笑顔を添えて志津真が言うと、威軍は嬉しそうに頷いた。 ***  多少の渋滞もあり、病院近くのレストランに到着したのは、北京飯店を出発してから1時間半後だった。  レストランに寄り、志津真と威軍の祖母の好きそうなものを威軍が厳選して注文した。  そして、両手いっぱいに料理を持って、緊張した面持ちの志津真と威軍は病院へと向かった。

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