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第34話

 威軍(ウェイジュン)は、少し緊張した面持ちで、祖母の病室のドアをノックした。 〈おばあちゃん?〉  ドアを開くと、祖母は大画面のテレビを観ながら、編み物をしていた。 〈まあ、ウェイウェイ!随分早く来てくれたねえ〉  祖母は編み物の手を止めて、可愛い孫を出迎えた。 〈お客さんが来ているんです。入ってもらっていいですか?〉 〈お客?〉  不思議そうな顔をする祖母に、微笑みかけ、威軍は一息ついてから口を開いた。 〈仕事で北京に来た上司が、お見舞いに来てくれたんだよ〉 〈上司?威軍の?それって、日本人の?〉  驚いた祖母は居住いを正した。 〈待たせちゃ悪いよ。入ってもらいなさい〉 〈はい…〉  威軍が廊下に戻ると、ニコニコした志津真(しづま)が待っていた。  2人はしっかりと目を合わせ、頷いた。 「你好、初次见面(こんにちは、はじめまして)!」  いつものように人の良い笑顔で、加瀬(かせ)部長が知っている限りの中国語で挨拶をする。 「你好、你好!」  すでに加瀬部長の人たらしの笑顔に魅了されたのか、祖母はにこやかに孫の上司を迎え、愛想良く手を伸ばし、椅子を勧めた。 「我是加瀬(加瀬といいます)。请多关照(どうぞよろしく)」  威軍の祖母の手を、大きな手で包み込み、志津真は労わるように声を掛け、名前を名乗った。  そんな加瀬部長の誠実そうな態度に安心したのか、祖母は穏やかな眼差しを孫の上司に注いだ。どうやら、すっかり加瀬部長のことが気に入ったようだ。 〈さあ、座って。お昼ご飯は食べたの?〉  祖母が中国人らしい気遣いで言うと、加瀬部長はニッコリ笑って、手にした袋を持ち上げた。 〈ああ、持って来たの?ここで食べるといいわ〉  機嫌の良い祖母に、威軍もホッとして話し掛けた。 〈おばあちゃんのお昼ご飯は?〉  中国の病院のほとんどは、日本のような「病院食」というものが無く、家族が持ち込むことが多いが、それ以外は病院が提携している食堂に注文して配達してもらう。  中秋節の今夜は、郎一家の家族団欒なので家族が持ち込むことになっているが、今日の昼は祖母の判断に任されていた。 〈病院の食事を頼んだのだけど…。なんだか口に合わなくて…〉  祖母が不愉快そうに指をさす先には、銀色の丸い蓋つき容器が三段になった、いかにも病院用の配給弁当といった感じの物が、移動式のサイドテーブルの上に置かれていた。 〈ちょうど良かった。昨日のレストランで昼食を買って来たんです。みんなで一緒に食べよう〉  威軍がそう言うと、祖母は嬉しそうに、孫とその上司を眺めた。  気が利くらしい上司は、祖母が拒絶した昼食を持って、きょろきょろしながらミニキッチンのほうへ消えていった。 〈ねえ、あの人、言葉は分かるのかい?さっきの挨拶も随分とカタコトだったけど〉  祖母が上司に聞こえないように、小さい声で威軍に訊ねた。 〈いいえ。中国語は、先ほどの挨拶がやっとです。でも英語はとても上手ですよ〉 〈そうかい。じゃあバカではないんだね〉  祖母はそんな冗談を口にして、肩をすくめて笑って見せた。  威軍も同じように笑っていると、加瀬部長がキッチンで見つけたらしい、取り皿や箸を持って来た。それを、視線を合わせるだけで何も言わず、部下に渡す。  その様子を祖母がジッと見詰める。  上司は、手が空くとすぐにキッチンに戻り、今度はすぐに顔を出した。 「なあ、郎くん。お茶ってどうするん?」 「あ、それは、私が…」  段取りが分からず、苦笑いをしながら上司が言うと、部下は振り返り、キッチンへ向かった。  取り残された上司は、二ッと愛想良く笑い、ベッドに近付き、サイドテーブルに買って来た料理を並べた。 〈それは、こっちへ。もっと寄せないと落ちてしまうからね〉 「こうですか?こんな感じ?」 〈そうそう。それでいいから。あっちに椅子があるから、ここへ持ってきなさいよ〉 「え?あ、この椅子?使っていいですか?」  取っ手と蓋のついた中国茶用の湯呑を取り出し、威軍は直接茶葉を入れた。そこにポットの熱湯を注ぎ、蓋をして、茶葉を蒸らしながら、お盆に乗せて威軍が戻ると、互いに言葉は通じていないはずなのに、何となく和やかに祖母と上司は意思の疎通をしていた。  威軍は少し離れた固定式のサイドテーブルのほうに、ジャスミンティーを3つ置いてベッドの近くに戻った。 〈おばあちゃん。私の上司をこき使っちゃだめだよ〉 〈この人がやってくれるというんだからいいんだよ〉  祖母が当然だというように頷きながら言うのを、威軍は笑って見守っていた。 「え?なんて?俺、なんか間違ってた?」  微妙な表情で問いかける上司に、威軍は優しく笑って首を横に振った。 〈お腹が空いただろう?さあ、お食べ〉  祖母が箸を持って、加瀬部長に持たせようと手を伸ばした。すぐに気付いて、部長は祖母の手を取った。 〈さあ、一緒に食べようね〉 「一緒に、いただきましょう」  奇しくも言葉が通じないはずの2人が同じことを口にしたのが、威軍には意外でもあり、その偶然がなんだか嬉しかった。 〈あ!ウェイウェイや。冷蔵庫に昨日のカシューナッツ炒めが残っているよ。食べさせてあげなさい〉  祖母が慌ただしくそう言うと、通じないはずなのに、熱心に部長に説明を始める。 〈鶏のカシューナッツ炒めはね、このウェイウェイの子供の頃からの大好物で、私の得意料理なんだよ。この子の父親も大好きでね。言うなれば郎家の家庭の味なのよ。しかもこれは、ウェイウェイが私の言う通りに、初めて作ったものだから、あなたも食べておきなさい〉 「???え~っと、郎威軍くんが、作ったってことかな?」  身振り手振りで表情豊かに語る祖母に、勘の良い部長も指さし確認をしながら頷いていた。 〈そうなの。あの子が作ったの。初めて作ったのよ〉 「うん、うん。郎くんが作った、貴女(あなた)の得意料理ってことなら、ぜひ食べたいです」  冷蔵庫内のタッパーウェアに入っていた料理を皿に移し、レンジで温め直した威軍が戻ると、すっかり打ち解けた様子の祖母と恋人の姿に、満ち足りたものを感じた。  祖母は何も知らないけれど、自分が最愛の人同士が仲良くしている姿が、感動するほど嬉しかった。 〈随分と、仲が良さそうですね〉  料理の入った皿を手に戻った威軍に、2人が笑顔で振り返った。 「どうして言葉が通じない祖母と仲良くなってるんですか?」  からかうように威軍が言うと、志津真がドヤ顔で即答した。 「ん~、関西弁は世界中どこでも通じるねん、不思議やな」 「そんなわけないでしょう」  笑いながら、威軍が席に着くと、自然な様子で志津真が箸と取り皿を手渡す。そんな睦まじい様子に、何の違和感も無かった。 〈さあ、いただこうか〉  祖母の一言で、志津真と威軍が両手を合わせた。 「「いただきます」」  そんな日本式の習慣を身に着けた孫を、祖母は優しく見守っていた。

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