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第35話

〈ウェイウェイや〉  食器洗いを一手に引き受けてくれた部長のおかげで、威軍(ウェイジュン)は祖母に薬を飲ませたり、ゆっくりとお茶を飲ませたりと、寄り添うことが出来た。 〈あんな立派なスーツを着ているのに、洗い物をためらわずに出来るだなんて、本当にイイ人だねえ〉  椅子の背に掛けられた部長のジャケットに視線を送りながら、祖母は感心したように言った。 〈うん。とてもイイ人で、信頼も出来るし、尊敬もしてる〉  威軍は祖母の目をジッと見ながらそう答えた。しばらくは真剣にそんな孫の様子をうかがっていた祖母だったが、ふいに目先を落とし、静かに微笑んだ。 〈威軍の、大事な人、なんだね…〉  何気ない様子で言った祖母の一言だったが、その言葉の重さに威軍は息を呑んだ。 〈おばあちゃん…〉  祖母は手を伸ばし、可愛い孫の手に重ね、ポンポンと軽く叩いて、安心させた。 〈嬉しいよ。誰より先に、私に会わせてくれたんだね。あの人が、ウェイウェイの好きな人なんだろう?〉  何もかも察した祖母は、動揺した様子も無く、気分を害したようでもなく、ただ、ほんの少し寂しそうに威軍には見えた。 〈…ごめんなさい、おばあちゃん…〉  何も言えない後ろめたさに、威軍は唇を噛み、俯いた。そんな威軍の頭を、祖母はその胸に引き寄せ、抱いた。 〈謝らなくていい。あんなに親切にしてくれるってことは、あの人もお前の事が好きなんだね〉  祖母の、年の功なのか人を見る確かな目に、威軍は驚かされたが、納得もした。 〈あの人なんだろう?昨日、お前が好きな人がいる、と言った相手は…〉  そう言われて、今さら嘘が吐ける威軍では無かった。 〈そうだよ。…本気で、愛してるんだ〉  威軍自身、初めて心の内を声にした。もちろん、志津真(しづま)に対して、気持ちを告げたことはある。だが、これまで、恋人以外の誰にも、自分に愛する人がいるのだと打ち明けたことは無かった。  ようやく、その真実を自分以外の誰かに知ってもらうことができた。それが最愛の祖母であることも嬉しかった。 〈そうかい〉  祖母の言葉は少なかったが、全てを知って受け入れてくれたのが、威軍には分かった。  キッチンの陰から、祖母と孫の様子に気付いた志津真は、難しい顔をして壁に凭れながら2人の会話が終わるのを待っていた。 〈おばあちゃんは、お前が幸せになるのならそれでいい。…けどね〉  ここで祖母は言葉を切って、不安そうな孫の手を強く握った。 〈父さんと母さんに言うのは、もう少し待った方がいい〉 〈おばあちゃん…〉  祖母は病人とは思えぬ力強い目で、孫に言い含めた。 〈お前が親不孝だとか、悪いことをしている、というのではないよ。ただね、お前の両親は教員で…〉  一瞬、祖母は言い淀んだ。孫を傷つけることになるのではないかと、心配になったのだ。 〈学校では、…お前と同じような生徒には、「矯正」しようとするからねえ〉  祖母の言葉に、威軍は何も言い返せない。  聡明な威軍が、これほどに同性の加瀬志津真との恋愛を「罪」のように深刻に考えるには、それなりの理由がある。  威軍が子供の頃には、中国ではまだ同性との性行為は事実上「犯罪」とみなされていたのだ。刑法上は改訂されたものの、長く同性愛は精神疾患であるとして、政府公認の下で残酷とも言える治療が公然と行われていたのだ。  同性を愛することは、犯罪であり病気であるのだ、という認識が子供の頃に植え付けられた威軍は、2014年に同性愛は精神疾患ではなく、治療は不要だとする初の判決が出た後も、不安を拭いきれなかった。  さすがに、かつてのような電気ショックを与えるなどの非人道的な治療行為は無くなったとはいえ、今なお同性愛は否定的なものとみなされることは多い。  学校教育の上でも、同性愛者はその個性を尊重されるということは、まず無いのだ。  そんな職場で働く両親に、認めてもらうことが難しいのは、威軍にはよく分かっていた。  むしろ、同性愛が犯罪だと見做された頃を知る祖母が、これほど柔軟に受け入れてくれたことが、威軍には感謝してもしきれないほど嬉しかった。 〈そうだねえ。もうすぐ父さんも、母さんも学校を退職する。それから伝えた方が、2人にとっても考える時間ができていいんじゃないかね〉  祖母のアドバイスは的確だった。  教師の息子が同性愛者だと、学校や生徒に知られては両親も困るだろう。  それは分かる。  理屈の上では正解だと思う。  それでも、真面目で優等生だった威軍は、自分が親にも言えないことをしているのだと思うことがつらかった。まだ当分は、親に嘘を吐くことになるだろう。正直に話せる日が来たとしても、それはそれで両親を苦しめることになるかもしれない。  いろいろ考えながら、威軍は胸が潰れそうになる。 〈本当にあの人を愛していて、あの人がお前を愛してくれているなら、負けちゃいけないよ、威軍〉  祖母はそう言って、愛しい孫を励ますようにしっかりと抱きしめた。 〈ありがとう、おばあちゃん…。大好きだよ〉  祖母の胸の中で泣く威軍に、キッチンから出てきた志津真が近付いた。 「郎くん…。俺、もう帰るわ」  自分の存在が、恋人を苦しめているのでは、と感じた志津真は、威軍の両親が来る前に北京に戻ろうと思っていた。 「志津真、…行かないで下さい」  振り返った威軍の目は赤くなってはいたが、しっかりとした眼差しで恋人を見て言った。  志津真は、威軍が自分を祖母の前でファーストネームで呼んだことの意味を察して、ハッと目を見開いた。 「おばあ様…」  志津真は、威軍の祖母が2人の仲を認めてくれたのだと分かった。 〈おいで…〉  茫然と立たずむ志津真に、祖母は手招きした。それに呼ばれるように志津真はベッドに近付き、彼女の差し出した手を取った。 〈私はまだあなたの事を何も知らない。けれど、あなたが私の大事な孫を愛し、大事にしてくれるというのなら、私は心から2人の幸せを祈るよ〉 「…誓ってもいいです。私は必ず、郎威軍を一生愛し続けます。彼を幸せにするよう、一生努力し続けます」  なぜか2人は互いの言葉を理解しているように見えた。いや、言葉でなくきっとその真心が通じたに違いない。言葉を超えた、どちらも郎威軍を愛しているという気持ちが、祖母と加瀬志津真を繋いだのだろう。 「ありがとうございます」 〈谢谢〉  2人は同じ言葉を口にしていた。  郎威軍を心から愛する2人が、ここで心を重ね、絆を結んだのだと、威軍は心からの幸福感を噛み締めた。

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