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第36話

 威軍(ウェイジュン)の両親が夕食を運んでくるまで、威軍と志津真(しづま)は楽しく祖母の相手をした。 「これは、俺からのお見舞いです」  志津真が差し出したのは、北京飯店内のブティックで買った、最高品質のカシミアのストールだった。日本で買うことを思えば半額以下の価格だが、それでも十分に高価な商品だ。上品な臙脂(えんじ)色の、重さを感じさせないようなフワフワのストールに、祖母は大感激で、何度も何度もお礼を言った。 「それと、これは日本のお菓子で、『水羊羹(みずようかん)』といいます」  お中元などでよく見る、小さなカップに入った缶詰の水羊羹を、志津真は祖母の目の前で開けて見せた。 〈…う…ん…?〉  おそるおそると言った感じで、祖母は小さいスプーンで、初めての水羊羹を口に運んだ。 〈どうですか?〉  威軍が口直し用にジャスミンティーを差し出しながら、こちらも不安そうに祖母の顔を覗き込む。 〈ん?あ、ああ。小豆ゼリーみたいな味がするね。意外に美味しいわよ〉  ひと口で気に入ったらしく、祖母はそのままパクパクと水羊羹を食べ切ってしまった。確かに、広東料理のデザートに、似たような小豆の菓子があるのだ。  以前にそれを食べた志津真が、(水羊羹に似た菓子だなあ)と感じ、中華料理にこんなデザートがあるなら、逆に日本の水羊羹も中国人の口に合うのではないかと思っていたのだ。  そのため、夏の終わりに実家から送って来たお中元のお下がりの水羊羹を、いざという時のために保管していたのだった。  美味しいものに国境は無い、という志津真の信条がここでも証明することができた。 〈志津真のおかげで、珍しい物が食べられるわねえ。昨日ウェイウェイが持って来てくれたのも、日本のお菓子なんでしょう?日本に留学していたっていう医者が、懐かしそうに見ていたから、ちょっとあげたわよ〉  そういう祖母は、ちょっと誇らしそうだ。祖母に限らず、特に首都・北京周辺の人間は、昔ながらの「面子(メンツ)」を重んじる。ちょっと他人に自慢できるようなものを持ち、欲しがる者に分け与えるという鷹揚さが、その面子を支えている。 「必要があれば、いつでも行って下さいね。上海にある物ならすぐに送ります。上海に無くても、日本から取り寄せますからね」  いそいそと祖母の言葉を翻訳する威軍の言葉に、志津真もすぐに親切な笑顔を浮かべて答える。 〈志津真がそう言って約束してくれるのなら、安心だわ〉  すっかり加瀬部長を気に入った祖母は、孫の上司を「志津真(チージンチェン)志津真(チージンチェン)」と呼んでは可愛がったり、甘えたりした。祖母には「志津真(しづま)」と呼ぶよりも「志津真(チージンチェン)」の方が発音しやすいのだ。  そんな様子が、恋人を家族の一員と認められたような気がして、威軍は微笑ましく見ている。  祖母と志津真は、お互いに中国語と日本語しか発していないのに、先ほどからほとんど威軍の通訳なしで、意思の疎通ができており、親密な雰囲気になっていた。 〈少し、眠くなってきたわ。夕食の時間まで、昼寝をするから、ウェイウェイと志津真は街で息抜きでもしてらっしゃい〉  そう言うと、祖母は5分もしないうちに、スヤスヤと気持ちよさそうな寝息を立て始めた。  ふと志津真が時計を見ると、ちょうど3時だった。 「お茶でも飲みに行こか?」 「…はい」  2人は肩を並べて、病院を出た。  秋の心地よい風が、頬をくすぐる。    志津真と威軍は、黙って病院の庭を抜け、街へと向かった。  すぐ近くに小さな市場があるのだが、今日は中秋節でもあり、午後からはほとんど閉まっている。  それでも、市場の片隅で、母親というよりも姉のような若い女の子が、赤ん坊を背負い、3歳くらいの男の子の手を繋ぎ、虚ろな目をして座り込んで、自家製と思しき豆や種を売っていた。  薄汚れた白いシャツ。日本のモンペのような黒い作業ズボン。農作業のせいか、黒く汚れた顔。子供たちの目にも輝きが感じられない。  親子ともに疲れ切っている…。そうとしか見えなかった。若すぎる結婚と出産。そして封建的な農家の嫁という過酷な労働が、こうやって少女を疲弊させていくのだろう。 「オヤツ、買って行こうか」  同情したのか、志津真が足を止めた。  何も言わずに、威軍が疲れ切った母親から、食用のヒマワリの種とスイカの種を買った。  ヒマワリの種は柔らかくて割りやすく、スイカの種は大きくて割りやすいので、食べ慣れない志津真にも種を取り出しやすい。  威軍が母親から買い物をしている間、志津真は子供を相手にして遊んでいた。退屈していただけなのか、志津真がちょっかいを出すと、母親の陰に隠れるようにしながらも子供はようやく笑った。 「…あの子ら…」 「え?」  買物を済ませ、歩き出すと、志津真が真面目な顔をして、ポツリと言った。 「あの子ら…、幸せになれるんかな」  威軍は、志津真が子供好きなことを知っていた。こんな風に通りがかりに見かけただけの子供の将来を(うれ)うくらいに。  志津真を愛している。  一生、この人の傍にいたいと思う。  だけど、この人に遺伝子を引き継ぐ子供を与えてあげることはできないのだ…と、威軍は痛感した。  だが、それは威軍も同じで、ひ孫や孫を楽しみにしている祖母や両親に、その顔を見せることは出来ない。  志津真となら、2人で家族になることはできる。しかし、未来に繋がる家族を生み育てることは出来ないのだ。  所詮、同性では、本当の家族にはなれない…。  威軍はそう思った。

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