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第39話

 威軍が志津真を連れて逃げ出した先は、街の用水路の役割を果たす河川の(ほとり)だった。  上海では中秋節に日本と同じように、月見をする習慣があるが、特に人気なのが街の中心である黄浦江(こうほこう)の河畔から水面に映る月を愛でることだった。  だが、こちらではそのような習慣がないのか、広場の賑わいのせいなのか、川辺に人の気配は無い。  そこでも特に人目に付かないような場所を選んで、志津真と威軍は大きな木陰で、ひっそりと抱き合った。 「ウェイの家族の事、知れば知るほど、俺たちの仲を認めて欲しいって思ってしまう…。おばあ様が優し過ぎて、家族になりたいって思ってしまう」  真摯に、なおかつ色気のある甘い声で、志津真が囁くと、返す言葉が無い威軍は、少し強引に恋人の唇を塞いでしまう。 「……」「……っ」  互いの愛情を確かめるような、丁寧な口づけを納得するまで交わし、2人はゆっくりと離れた。 「明日、どうする?」 「…志津真と一緒に、上海に帰ります」  どこか自分に言い聞かせるように、威軍は毅然として答えた。 「エエんやで。おばあ様のことが心配なら、俺は1人で帰れるで?」  志津真は、威軍を安心させるように、優しく肩を抱いて言った。 「いいえ。祖母の事は心配いりません。検査の結果が出てからでも構わないので。それより、早く上海に帰って仕事をして、あなたと…愛し合いたいです」 「うん。ありがとうな。俺はいつでも、どこでもウェイの事を愛してるから、上海まで待つことないで」 「バカなこと、言わないで下さい」  笑いながら、威軍はそっと志津真の胸を押して体を離した。 「戻りましょう、母が月餅を切って待っていますよ」  威軍に手を引かれ、目立たぬように広場の隅を通って、病院を目指していた時だった。 「郎威軍!」  その時、後ろから女性に声を掛けられ、威軍は振り返った。  威軍の後ろを歩いていた志津真も、自然と振り返ってしまう。 〈久しぶりね、郎威軍〉  そこには、見知らぬ女性と幼馴染の何夏がいた。 〈何夏兄さん?〉  何夏は自信たっぷりな様子の女性に腕を取られ、苦笑いをしながら手を挙げて挨拶した。  困惑したまま威軍は、親しげに笑いかける女性に軽く会釈をする。 〈覚えてない?そうよね、小学前だもの〉  思わせぶりな彼女の口ぶりに、威軍は助けを求めるように何夏に視線を送った。 〈俺の同級の張麗麗だよ。ほら、お前を…〉  そこまで言って、何夏は張麗麗に掴まれていない腕を前に突き出した。その仕草で、威軍は幼い頃に突き飛ばされ、泥だらけの水たまりに倒れ込んだ「事件」を思い出した。 〈ちょっと、何よ~。私一人を悪者にする気なの?〉  張麗麗は、豪快な笑い方で何夏と威軍を圧倒した。 〈で、そっちの人は誰なのよ?〉  張麗麗がグッと身を乗り出して、加瀬部長に迫った。思わず、部長は後ずさりしてしまう。 「え?」  戸惑う部長を余所に、張麗麗はしたたかな笑いを浮かべた。 〈相当な、お金持ちのようね〉  張麗麗の圧力に、及び腰になる部長を、慌てて庇うように威軍が紹介する。 「部長、こちらの男性は私の幼馴染で何夏と言います。こちらの女性は何夏の同級生です」 〈こちらは、私の職場の上司で、日本人の加瀬さんです〉  威軍の紹介に、張麗麗の目がキラリと光った。 〈日本人なの?〉  その視線に、さしもの部長もたじろいている。そんな部長の態度をものともせず、張麗麗は、何夏を捕まえていた腕を放し、堂々と部長に向かって手を差し出し、握手を求めた。 「コンニチワ」 「あ、どうも…」  確かに、子供の頃は色黒で大柄の男勝りと言われた張麗麗だが、大人になり、都会勤めなのか、華やかさを身に着けた、ちょっと田舎では浮くくらいの美女だ。  化粧品のおかげなのか、今ではすっかり色白で、大柄なのは身長の高さと豊満な胸が目立つくらいで、自分をこれほど磨くのは、相応しい男性を見つけるためでもあろうかと想像はつく。自分自身の能力にも自信があるのだろうが、それに加えて夫の力も使ってのし上がろうという、最近では珍しくもない上昇志向の強い女性だ。 〈久しぶりにみんなが帰ったから、小学の同窓会があったのよ。でも、ほとんどが、ただの田舎者ばっかり〉 張麗麗は、うんざりした様子で言った。 〈ちょっとマシなのは、北京のホテルで働いてるこの何夏くらいだと思ったけど、やっぱり上海の日系企業で働く郎威軍は垢抜けてるわね〉  そう言って、威軍にニッコリと媚びを売るが、相手にもされない。 〈ねえ、郎威軍は結婚したの?〉  期待の籠った目で言われて、何を思ったのか威軍は平然とした様子で答えた。 〈結婚はまだですが、婚約者はいるので〉 〈え!〉  驚いたのは、何夏の方だった。 〈聞いてないぞ、そんな話〉 〈なんだ~。でも、仕方ないわよね~〉  全く異なる反応に、会話が理解できない部長はキョトンとしている。 「なあ、何の話?」 「さあ、病室に戻りますよ。祖母には、そこの飴を買って帰りましょう」  幼馴染と部長を無視するように、威軍はサッサと歩き出した。 「ちょ、ちょっと~、郎くん?」  威軍は夜店で「糖葫芦(タンフールー)」と呼ばれる、一口サイズに切った果物を串に刺し、それを飴でコーティングした伝統菓子を3本買い、1本を何夏に、もう1本を張麗麗に渡した。 〈じゃあ、祖母が待っているので失礼します〉  威軍は、糖葫芦を手に、誤魔化されたのが不満そうな張麗麗と、目を丸くした何夏に挨拶をすると、志津真を促し、クルリと背を向け病院へ戻って行った。 「なあ。幼馴染って人、何をビックリしてはったんや?」  言葉が分からないなりに、何か自分に関係があることだけを感じて、志津真は威軍に食い下がった。  暫く歩いて、張麗麗や何夏が見えなくなると、威軍は楽しそうに、笑った。こんな無邪気に笑う威軍が珍しくて、志津真はますますポカンとなる。 「結婚しているのかと聞かれたので、結婚はしていないけれど、婚約者はいます、と答えました」 「え?こ、婚約者…って…」  大胆な威軍の発言に一瞬度肝を抜かれた志津真だったが、すぐに我に返って満面の笑顔になった。 「うわ~。すぐに給料3カ月分の指輪買うわ~!」  嬉しくて、思わずはしゃいだ声を上げた志津真だったが、ここが病院の入口だと気付き、慌てて口を閉じた。  そんなお茶目な恋人を、威軍も温かいまなざしで見守っていた。  

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