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第43話

 北京飯店のエグゼクティブルームに戻り、志津真(しづま)は先にお風呂に入ることにした。 「ウェイも一緒に、どうや?」  一応誘っては見たのだが、一瞥されただけで無視された。  しかし、そんなことには慣れている上司は、めげることも無くゆったりとバスタブに身を沈めた。  もちろん、恋人とイチャイチャしながらのバスタイムも楽しいものだが、そこは長年連れ添った仲だ。お互いに楽しみがそれだけでは無いこともよく分かっている。 「あ…」  バスタブの縁に足先を載せて、志津真は自分の右足が少し腫れていることに気付いた。  郎威軍(ラン・ウェイジュン)主任が、イベント会場から飛び出した時には、車椅子に乗っていた加瀬部長だった。けれど、車椅子を押していてくれた主任が消えて、他の部下に世話をされるのが心苦しかったのか、部長は急に松葉杖で動き出したのだ。  そして、その翌日には、威軍を追って、松葉杖さえ捨てて、北京行きの飛行機に飛び乗った志津真だった。 (ま、しゃーないか)  志津真は苦笑いして、バスタブの中で体を洗い始めた。 (え?)  その時、バスルームのドアが開き、バスローブを着た威軍が現れた。 「気が変わったんか?」  笑いながら、志津真はソッと足を湯船に戻した。 「いえ。疲れているだろうから、体を洗うのを手伝おうかと思って」  そう言いながら、威軍はバスタブの(ふち)に腰を下ろした。 「今日は、疲れたでしょう?」  威軍は優しく労わるように志津真の腕を取り、その掌でマッサージをするように丁寧に洗い始めた。 「でも…、夢のように楽しい1日でした。すべて、あなたのおかげです」  威軍の笑顔に、志津真も嬉しそうにして、恋人に空いている方の手を伸ばした。そのまま導かれるように、2人は唇を重ねる。 「俺の…婚約者さん」  一旦離れて、甘い声で囁くと、志津真はもう一度威軍を求めた。そしてその手はソッと威軍のバスローブの腰ひもに伸びる。 「ん…、っう…ん」  唇を塞がれたまま威軍は抗議したが、それも虚しく、バスローブの紐は簡単にほどかれ、艶やかな素肌からローブはするりと滑り落ちてしまう。  仕方なく残った袖を抜き、全裸になった威軍も、志津真に重なるようにバスタブに入った。  深く、浅く、キスを繰り返し、互いの知り尽くしたカラダの愛撫を交わした。  付き合い始めた頃の、何もかもが新鮮な、冒険のように刺激的な交わりも素晴らしかったと2人は思う。  けれど、知り合って10年以上、付き合って6年になった今、相手の好みや好まぬ事を知り尽くした上で、夢中になって求め合う夜や、言葉を交わすように触れ合うだけの行為もまた、自分自身を満たすことを、志津真も威軍もよく知っていた。  激しく動くと、バスタブからお湯が溢れ、バスルームを濡らすことを心配して、2人はそれ以上求め合うことはせず、抱き合ったままバスタブのお湯に浸かっていた。  その時、志津真がふと思い出したように口を開いた。 「さっきの…アレ、どう思う?」 「アレって?」  何夏の運転する車の中で、張麗麗に言われたことを、志津真は少しだけ気にしていた。 「お前の幼馴染が言うてたことやん」 「?」 「俺がウェイウェイに夢中になるのは分かるけど、その逆はありえへんって言われたんやろ?」  (ひが)んでいる様子や落ち込んでいるようでもなく、皮肉っぽい笑顔で言う志津真に、威軍はアッと言う表情になり、そしてすぐにクスクス笑いだした。 「気にしているんですか?あんなこと…」  慰めようとしてか、威軍は恋人の頬を優しく撫でた。  威軍は張麗麗が冷やかしたことを、志津真には、かなり遠回しに伝えたつもりだったが、勘のいい恋人は、自分が何を言われていたのか分かっていたようだ。  確かに、張麗麗は威軍に対して、 〈中国語も話せない日本人で、10歳近く年上で、大したハンサムでも大富豪でもない、いたって普通の中年なのに、郎威軍が惹かれる理由がある?〉 と言ったのだが、志津真にはそのままズバリとは言わずに、柔らかく 「なぜこの人が好きなのか分からない、と言われた」 と、だけ伝えたのだ。 「俺がウェイウェイを好きな理由なら、10個以上挙げられるけど…」  そう言って、志津真はチュっと音を立てて威軍の頬にキスをした。 「お前は?俺のこと、好きな理由を10個言える?」 「何ですか、それ?」  クスクスと笑いながら威軍は身を起こした。  人間の感情に10個の理由を必要とするという意味が、威軍には理解できない。日本人的なのかな、と少し不思議に思う。  好きだという気持ちに、理由なんかは無い。もしくは、いくつ理由があっても足りない。人を愛する気持ちを、数字で表そうなどと、まったく無意味だと威軍は分かっていた。 「じゃあ、まず、あなたから…」 「?何を?」 「私の事を好きな理由を、10個、挙げられるんですよね」 「…ああ、それな」  しっかりと見つめ合い、深い信頼を確信しながら、威軍は立ち上がった。 「続きは、ベッドで聞かせて下さいね」  艶美な笑いを浮かべ、威軍はシャワーブースに入り、その裸身を見せつけながら体を流した。そして、バスタオルを手にすると、誘惑的な視線を送って寝室に戻って行った。 (…ったく…)  バスルームを出て行く威軍を見送って、志津真は1人、苦笑した。  知り合って以来、プライベートだけでなく、職場でも一緒だというのに、まだまだ自分を魅了する恋人がいる。それが嬉しくて、なんだか気恥ずかしくすらある。  その場にいるだけ、こちらを向いて微笑んでくれるだけで、今でもまだ胸が高鳴る。  触れたくなる。引き寄せたくなる。その体温を感じたくなる。 (確かに、理由は1つかもしれへんな…)  志津真は足を庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。 (こんなに好きな理由は、「好き」って気持ち1つだけかもしれへん)  まるで思春期のように、純粋に、胸を熱くする41歳だった。

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