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第44話

「どういうことなん…」  志津真がバスルームを出ると、キングサイズのベッドに真っ直ぐ向かった。  ベッドの下に、威軍が使ったバスタオルが落ちている。  この設定であれば、一糸纏わぬ艶めかしい恋人の裸体が、ベッドのブランケットの下で待っていると期待した志津真だったのだが…。 「何が、ですか?」  テレビの前のソファで、寛ぐ威軍があっさりと応える。  その姿は、志津真が期待した神聖ささえ感じる裸身ではなく、胸に高校の名前の入ったTシャツに、少し丈が短いジャージのズボンという、「実家に保存してあった高校時代の体操服」などと信じられないような服装である。 「なんで、そんな恰好してるん?」  呆れた志津真がそう言うと、威軍は平然として、言っている意味が分からない、とでも言うように肩を竦めた。 「いやいや、なんで実家からそんなん持って来たん?」  すると、威軍は志津真が目を疑うほど妖艶に微笑み、ソファの上に仰向けに横たわって、その白く、長く、美しい指先を、自分の身体をゆっくりなぞるように這わせた。 「あなたの知らない私に、興味があるかと思ったんです…」 「!…おっと…、そう来るか」  恋人の意図に、志津真は好色な笑みを浮かべた。  2人が初めて会った時、郎威軍はすでに大学生で、加瀬志津真は日本の領事館勤務の官僚だった。  それ以前の威軍のことを、志津真は確かに知らない。  それを、知り合う以前の、穢れの無い純真な少年期(こうこうせい)の自分まで捧げようという、恋人の献身に志津真は感動した。  客観的には、それは32歳の男による、高校生コスプレでしかないのだが、冗談好きの恋人を喜ばせたいという、ちょっとした悪戯心がさせたことだった。  そして、その悪戯は充分に効果的だった。 「先生を誘惑するなんて、悪い生徒や。すぐに先生が指導せなアカンな…」  まるで安っぽい毛片(ポルノ)のような演技で、志津真が偽物の高校生に迫ろうとしたその時だった。 「ちょっと待って下さい」  今までの甘いムードが嘘のような謹厳な声で、威軍が志津真の動きを止めた。 「は?」  その気迫に、ビクリとして志津真が動きを止めた。 「その足はなんですか!」 「…あ、足って…」  まるで動けなくなる魔法をかけられたように、志津真はそのまま固まった。 「右足、腫れてるじゃないですか!」  骨折して、ほとんど治りかけていた右足首の上部が赤く腫れていた。明らかに悪化しているのが、ずっと近くで看護していた威軍にはすぐに分かった。 「無理をしたんですね」  不注意を責めるように言った威軍だったが、聡明な彼はすぐに気が付いた。 「違いますね…。私が、無理をさせたんだ…」  みっともない服装のまま、威軍がシリアスな顔で恋人を見つめた。 「もし、私が逆の立場なら、同じことは出来ませんでした…」 「そりゃ、逆やったら日本まで出国せんならんからな」  そう言って志津真が茶化そうとしたが、威軍の表情は晴れなかった。 「分かっているはずです…。そういうことでは無いと」 「そうやな」  ニヤけていた志津真の顔が、真剣になった。そして、両手を広げて恋人を受け止めようと待った。  それに応えるように、威軍も志津真の胸にそっと寄り添う。 「念のため、湿布持って来てるねん。貼ってくれるか?」  しっかりと恋人を抱きすくめ、その耳元で甘えるように志津真が囁いた。 「もちろんです」  ギュッと強く抱き合い、2人は静かに互いの温もりを確かめていた。相手の体温が、今は自分だけのものだと感じていた。 「湿布は、どこですか?」  まるで愛の言葉を囁くように、現実的なことを威軍は志津真に耳打ちした。 「スーツケースの内ポケット」 「分かりました。まずは、ベッドに寝て下さい」  威軍の手を借りて、志津真はベッドの端に座った。  安全を確認してからベッドを離れ、威軍は志津真のスーツケースに近付いた。中を開き、ネットになった内ポケットに湿布薬の袋を見つけた。 「さあ、足を出して下さい」  ベッドのヘッドボードに枕を重ね、両足を投げ出すようにして背中をもたせ掛けていた志津真が、ベッドの横に立つ威軍のほうに右足を伸ばした。  湿布を手に、ベッドに上がった高校の体操着姿の威軍は、優しく志津真の右足に触れた。 「私のために、上海から飛行機に乗って北京まで来てくれた…」  赤く腫れた部分にソッと掌を置いて、威軍は続ける。 「私のために、上司としてでいいから家族に会ってくれると言った…」  まさに「手当て」することで、志津真の痛みが取れるように、威軍は祈るように触れる。 「私のために、夕食や朝食や夜市や池に付き合ってくれた…。たくさん歩かせてしまいましたね」  申し訳なさそうにそう言って、威軍は、志津真がクリニックで多めに貰っておいた、鎮痛剤のロキソニンテープを痛そうな部位に貼った。 「何もかも、私のために…嬉しいです。心から、感謝します」  最後に、心を込めて足先に口づけを落とした。 「私を思ってくれる人が、私の愛する人が、『加瀬志津真』で良かったと、本当にそう思います」  威軍が微笑むと、志津真もまたそんな恋人を受け止めるような悠然とした態度だったが、急にクシャっと顔を歪めた。 「すっごいエエとこなんやけど…その服装が、な」  志津真の言葉に、一瞬2人は顔を見合わせ、次の瞬間には大きな声で笑い出した。 「実は、今夜のパジャマ代わりにと持って来たんですけど…。今夜も『不要』ですか?」 「いや、脱がせる楽しみがある」  2人は見つめ合い、笑い合い、抱き合って、満足した。    明日には、上海へ戻って、いつも通りの毎日が始まる。  そこにはいつでも、愛する人が傍に居て、自分の事を思ってくれる。  たったそれだけのことが、得難い幸せなのだということを2人は噛み締めていた。  今夜は中秋節。  大きな満月が北京の空を照らしていた。 《終劇》

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