46 / 48

第45話

「あ~、やっぱりココが一番落ち着くな」  北京から同じ飛行機で、上海虹橋(ホンチャオ)空港に戻って来た志津真(しづま)威軍(ウェイジュン)は、途中、日本人シェフがいる洋食店に寄り昼食を済ませ、淮海(ワイハイ)路にある、志津真の服務式公寓(サービスアパートメント)に戻った。  長期滞在用の、ホテルのような部屋であるのに、すっかり自宅と同じように寛げる志津真は、それほど長く、ここに居住しているのだ。 「お疲れ様でした」  威軍が、志津真の足を庇うように手を貸しながらそう言った。  そのまま玄関脇のバスルームで、2人して手を洗い、うがいをして、乾燥した大陸の空気から乾燥を予防する。日本以上に乾燥している上海の空気と冷え込みは、滞在期間10年を超す志津真でさえ、油断をするとすぐに風邪感染を招いてしまう。  手を洗い、うがいを済ませ、大きな鏡の前で、2人して並んだ自分たちを見た。 「なんか、前とは違うように見える」  志津真が嬉しそうに言った。 「え?」  鏡越しに、志津真に問い返すような顔をした威軍に、志津真は幸せそうに微笑んだ。 「だって、俺の隣にいるのは、もう俺の恋人やなくて、婚約者やもんな」 「同じですよ」  軽く受け流すように笑って、威軍が先にバスルームを出た。後を追った志津真だが、廊下で待っていた威軍に手を取られる。 「リビングでお茶でも飲みますか?」 「そやな。コーヒー淹れてくれる?」  キッチンの前を通り過ぎ、志津真のお気に入りのソファまで来ると、威軍はキッチンに戻った。  志津真は威軍と、この部屋で同じ時間を過ごす時、コーヒーを飲むことはあまりない。威軍がコーヒーを飲まない習慣だということを知っているからだ。  それなのに、今日はコーヒーを飲みたがると言うのは…。 (すっかり、疲れさせてしまった…)  威軍は、ちょっと複雑な表情をする。自分のせいで、怪我人を疲れさせるようなことになったのは、失敗だし、反省点だ。  けれど一方で、恋人が自分のために、そこまで必死になってくれるという事実が、面映(おもは)ゆい。  今回の事で、家族に紹介することも出来た。幼馴染にも婚約者だと言った。  志津真への気持ちになんら変わりはないが、志津真が言うように、何かが変わったようにも思う。  しかし上海に戻ってきて、改めて威軍は、これまでと変わらない毎日でいいと思った。多くを求めない。求める必要がない。なぜなら、今が十分に幸せだから。  冷蔵庫に入れてあったコーヒー豆を取り出し、ミルからドリップまでお任せのコーヒーメーカーにセットする。  ふと気付いて、志津真が手荷物として提げていたお土産の入ったエコバックを開けてみる。 「为什么买了这样的东西(なんで、こんなもの買うんだろう)?」  中を見て、威軍は思わず苦笑した。 「上海也有卖的哦(上海にも売ってるのに)」  万里の長城の写真がパッケージになっている、ベタな天津甘栗チョコレートが3箱も入っている。確かに、「天津甘栗」は天津ではなく、北京近郊が本当の生産地だ。  他にも、北京の老舗有名店の月餅も入っている。  自分のためではなく、きっとオフィスの部下たちのオヤツだろう。そんな風に下の者への気遣いが出来る上司であるから、加瀬部長は人気があるのだ。  そんな人気者を本当に独占できるのは、自分だけ…そんな風な甘い考えが浮かんできて、ソッと威軍が頬を染める。  そう。今はこれで充分だ。  今までも、これからも、変わらずにいること。威軍はそれ以上を望むつもりは無かった。  コーヒーが出来た。  マグカップに注ぎ、志津真好みの砂糖とミルクを入れる。  それと、冷蔵庫の上のバスケットに入っていたスナック菓子を適当に取り、リビングに戻った。 「しづ…」  声を掛けようとして、ソファで眠っている志津真に気付いた。  まだ完治していない怪我を押してまで、威軍を追って、愛しい人のために北京まで飛び、無理をしたのだ。 (冷静に考えれば、無謀だとも言えるけど、ね)  ちょっとあどけなく見える中年の恋人の寝顔に、威軍は指を伸ばした。  仕事の上では多くの人から信頼され、尊敬される、賢明な切れ者である一面、柔らかな関西訛の日本語で和ませ、心を開かせる、茶目っ気たっぷりの「人タラシ」でもある。  41歳には見えない若々しさを持ち、恋人には甘く、優しく、そして…。 (スケベオヤジでもあるな)  フッと笑って、伸ばした指で寝顔に掛かる髪を払うと、志津真がゆっくりと目を開けた。 「ん?あ?俺、寝てた?」 「大丈夫。コーヒーはまだ冷めていませんよ」  ニッと笑うと、志津真は身を起こして、威軍がローテーブルに置いた自分のマグカップを手に取った。 「ウェイウェイは?」  カップに口を着けながら、志津真が言うと、威軍は微笑んだだけで立ち上がった。  威軍は一度キッチンに戻って、ティーバッグの紅茶をストレートで淹れ、リビングに戻った。  志津真は先ほど威軍が用意したスナック菓子の袋を開け、テレビを点け、すっかり寛いだ、というより怠惰な様子で威軍を待っていた。 「完全に、ダメな中年って感じですね」  威軍が揶揄(からか)うと、お得意のチャーミングな笑顔で志津真が応える。 「嫌いになった?」  訊かれた威軍は、ちょっと困った顔をして、急に志津真に覆いかぶさり、唇を奪う形で返答した。 「どうして、嫌いになれないんでしょうね」  遠慮がちな威軍の笑顔に、志津真は晴れやかな笑みで返す。 「そりゃ、俺がウェイウェイに夢中やからやない?」  2人は見つめ合ったまま、笑みを交わした。 「昨日のアレ、しましょうか?」 「アレ?」  好色な目をして、何かを期待した志津真が身を乗り出した。

ともだちにシェアしよう!