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― 動乱の王宮 ③
王太子が会場を去ったとみるや、イリアスは「ディーテのところに行くぞ」と入口に向かった。その頃にはお腹いっぱい食べられていたので、文句はない。
会場を出る前にもう一度、ユリウスを見た。すると彼もこちらを見ていて、目が合った。
海人はびっくりして目を逸らした。
先を行くイリアスに置いて行かれそうになり、駆け寄る。
「部屋の場所はわかるの?」
海人が話しかけるが、イリアスは反応しない。
「イリアス?」
覗き込むように声をかけたら、やっと海人を見た。
「なんだ?」
聞こえていなかったようだ。イリアスが上の空だなんて、珍しい。
「ディーテさんの部屋! わかるのって聞いたの」
「ああ、大丈夫だ。子供の頃、何度も行ったからな」
「ふーん」
海人はちょっと面白くない気分だった。
イリアスは『アフロディーテ』のことをあまり話さなかったから、イリアスにとっても距離のある存在なのかと思っていた。だが実際の『アフロディーテ』はイリアスのことを『イル』と愛称で呼んでいた。抱き着いて喜ぶほど、親密そうだった。
海人はモヤモヤする気持ちを振り払いながら『アフロディーテ』の部屋を訪れた。
快く部屋に迎えられ、ソファに腰を下ろした。
何か飲む? と訊かれたので、海人はお酒以外のものを、と言ったら炭酸水が出てきた。
イリアスは果実酒を頼むと「イルがお酒を飲むなんて~」と笑っていた。
飲み物を用意し、ソファに座った『アフロディーテ』は海人を見た。
「改めて、はじめまして。僕は佐井賀 祥 。フジワラカイトくんだったよね」
アフロディーテこと佐井賀はふざけた雰囲気を消すと、落ち着いた大人の男になった。切れ長の瞳で鼻筋が通っている。知的な顔をしていた。
「名前からして日本人だね。どんな字書くの」
「藤原道長 の藤原 に、海 に人 で、海人 です」
苗字の漢字を訊かれたときは、大概「藤の花の藤に、原っぱの原」と答えていたが、あえて歴史上の人物名で例えてみた。佐井賀はくすりと笑った。
「藤原道長か。久しぶりに聞いたよ。まさか日本人に会えるなんて。本当にうれしい」
胸が詰まったような、泣きそうな声だった
海人はこの世界に来てすぐに同じ境遇の人の存在を知った。だが、彼はずっと、この世界にひとりでいた。そのことを思うと、海人も胸が詰まった。
「藤原くんにとっては災難だ。あまり喜んじゃいけないか」
佐井賀は苦笑したが、海人は首を振った。
「いえ、おれも佐井賀さんに会えるのを心の支えにしてました」
佐井賀が小さく頷き、海人は思い出したように続けた。
「実は、佐井賀さんが日本人じゃないかもって思ってたんです。名前が『アフロディーテ』て聞いてたんで……だから、同じ世界の人間だって証拠を持って来たんですよ」
「なに? 見せて」
海人はポケットからスマホを取り出した。佐井賀に電源の入らないスマホを渡す。
「これって……」
スマホの裏表を確認して、海人を見た。
「え、これはなに?」
「え⁉」
予想外の反応をされてしまい、海人は焦った。
「なにって、スマホです!」
「スマホ?」
「ケータイですよ!」
「ケータイ⁉ これが⁉」
佐井賀がいた日本ではまだスマートフォンは普及していなかった。携帯電話と言えば、折り畳み式が主流であり、タッチパネルではなかったらしい。佐井賀がこちらの世界に跳ばされて、まもなくして流行しはじめたものだ。海人からすれば、携帯といえばスマホである。まさか、スマホを知らないとは思わなかった。彼はガラケー世代の人間だった。
佐井賀は滑らかな黒い画面を指で撫でながら、海人に返した。
「はあ。現代日本って、こんななんだ。僕、今、帰れたとしても、ついていけないな。時代の流れってすごいね」
「佐井賀さんは十五年前にここに来たって聞きました」
「そうだね。十六のとき。藤原くんは何歳?」
海人でいいです、と言いながら、この世界で十八歳になったことを伝えた。
「似たような年か……」
佐井賀は少し考え込むようにした。
「ところで佐井賀さん。訊きたいことあるんですけど」
海が神妙な声で言うと、佐井賀は少し構えた。海人は訊く。
「なんでアフロディーテって名乗ってんですか」
「訊きたいの、そこ⁉」
佐井賀は思わず突っ込んだ。
「帰る方法とか、どういう状況で飛ばされてきたのかとか、もっと他にあるでしょ⁉」
しかし、海人にとって重要なのはそこではなかった。
「だって、おれ、ほんとずっと、女性だと思ってて! 『アフロディーテ』ってどんな美人だろうって、想像して……! イリアスも言ってくれないし! てか、なんで先に教えてくれなかったんだよ!」
大人しく会話を聞いていたイリアスに火の粉を巻き散らす。
「性別は訊かれなかった」
火の粉はあっさり振り払われた。
むう、と海人が膨れた。佐井賀がそれを見て笑う。
「僕は劇団に入っててね、ちょうどそのとき、男だけの劇でアフロディーテの役をやってたんだ。名前を訊かれて、咄嗟に答えたのがそれ」
「なんで本名、言わなかったんですか」
「どんな世界かわからないのに、ほんとの名前なんて怖くて言えないよ」
「…………」
「それに、アフロディーテが愛と美の女神だって知ってるなら、ふざけるなって言うもんでしょう。それが誰も疑問に思わない。ここは僕の世界じゃないってことがわかった」
海人は佐井賀の警戒心の強さに舌を巻いた。自分は本名を名乗ることが危険などとは頭の片隅にもなかった。それを十六歳という年齢で、そこまで考えたのか。
(すごく頭の良い人だ)
「でも、今じゃ後悔してるよ。誰も僕をほんとの名前で呼んでくれない」
佐井賀は苦笑いした。
自分で招いた種だが、まさかここまで定着するとは、とブツブツ言った。
「イルにも教えたのに、ちっとも呼んでくれないしさ」
恨めし気に見る。
「まわりがディーテ様と言っている中で、私だけ違う名で呼ぶのはおかしいだろう」
佐井賀はまあね、とだけで済ませた。グラスの果実酒を一口飲み、イリアスを見る。
「海人くんにも第五の霊脈はある?」
「ある」
「てことは、ユスにも視えてるわけか」
ユリウスの名前が出て、海人はどきりとする。
「海人くんは、僕たちに特別な能力があるのは知ってる?」
「知ってます。魔力を付与できるんですよね」
うん、と頷き、佐井賀はチラとイリアスを見て、海人を見た。
「方法は聞いた?」
海人はためらいがちに告げる。
「えと、この前、イリアスに魔力をあげたんで……」
「えっ⁉」
佐井賀は大きく目を開き、イリアスをギッと見た。
「なに、もう、やっちゃったの!?」
イリアスは佐井賀からわずかに顔を反らした。
「手ぇ早すぎ!」
わああああ、と海人は心の中で叫んだ。顔が火照る。
(言い方! その言い方はやめてほしい!)
海人が心中穏やかでない中、佐井賀はソファに体をうずめた。
「はあ。いくらなんでも、もう経験させるなんて思わなかったよ」
だから、言い方! と海人は声を大にして言いたかった。
佐井賀の非難がましい目に、イリアスは言い返した。
「緊急事態だったんだ。カイトには申し訳ないと思っている」
佐井賀が同情の目で海人を見た。
「海人くん。あんなのいきなりされて、びっくりしたでしょ」
あんなの、という言葉に海人はもごもごしながら俯いた。それまで無表情だったイリアスが明らかに不機嫌な顔になった。
「あなただって、人のことは言えないでしょう」
ぴくっと佐井賀は眉を動かした。
「なに。あのときのこと、蒸し返す気?」
佐井賀は面白くなさそうに言った。
「あのときはしょうがないでしょ。ほんとにどうしようもなかったんだから」
「だからそれと同じだと言っているんだ」
険悪な雰囲気になり、海人は仲裁するつもりで割って入った。
「あの、おれのことはいいんです。イリアスのおかげで、怪我人もでなかったし……」
海人は一度言葉を切り、思い切って聞いてみた。
「昔、何があったんですか? 佐井賀さんもイリアスに力をあげたことがあるんですよね?」
海人の問いに、イリアスと佐井賀が押し黙った。
沈黙が流れる。
海人は教えてもらえないのか、と消沈しそうになったとき、佐井賀が口を開いた。
「イルから話した方がいいんじゃない?」
イリアスは黙考し、わかった、と言った。
そして語ってくれた。七年前に起こった事件のことを。
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