23 / 38

― 動乱の王宮 ③

 王太子が会場を去ったとみるや、イリアスは「ディーテのところに行くぞ」と入口に向かった。その頃にはお腹いっぱい食べられていたので、文句はない。  会場を出る前にもう一度、ユリウスを見た。すると彼もこちらを見ていて、目が合った。  海人はびっくりして目を逸らした。   先を行くイリアスに置いて行かれそうになり、駆け寄る。 「部屋の場所はわかるの?」  海人が話しかけるが、イリアスは反応しない。 「イリアス?」  覗き込むように声をかけたら、やっと海人を見た。 「なんだ?」  聞こえていなかったようだ。イリアスが上の空だなんて、珍しい。 「ディーテさんの部屋! わかるのって聞いたの」 「ああ、大丈夫だ。子供の頃、何度も行ったからな」 「ふーん」  海人はちょっと面白くない気分だった。  イリアスは『アフロディーテ』のことをあまり話さなかったから、イリアスにとっても距離のある存在なのかと思っていた。だが実際の『アフロディーテ』はイリアスのことを『イル』と愛称で呼んでいた。抱き着いて喜ぶほど、親密そうだった。  海人はモヤモヤする気持ちを振り払いながら『アフロディーテ』の部屋を訪れた。  快く部屋に迎えられ、ソファに腰を下ろした。  何か飲む? と訊かれたので、海人はお酒以外のものを、と言ったら炭酸水が出てきた。  イリアスは果実酒を頼むと「イルがお酒を飲むなんて~」と笑っていた。  飲み物を用意し、ソファに座った『アフロディーテ』は海人を見た。 「改めて、はじめまして。僕は佐井賀(さいが)(しょう)。フジワラカイトくんだったよね」  アフロディーテこと佐井賀はふざけた雰囲気を消すと、落ち着いた大人の男になった。切れ長の瞳で鼻筋が通っている。知的な顔をしていた。 「名前からして日本人だね。どんな字書くの」 「藤原道長(ふじわらのみちなが)藤原(ふじわら)に、(うみ)(ひと)で、海人(かいと)です」  苗字の漢字を訊かれたときは、大概「藤の花の藤に、原っぱの原」と答えていたが、あえて歴史上の人物名で例えてみた。佐井賀はくすりと笑った。 「藤原道長か。久しぶりに聞いたよ。まさか日本人に会えるなんて。本当にうれしい」  胸が詰まったような、泣きそうな声だった  海人はこの世界に来てすぐに同じ境遇の人の存在を知った。だが、彼はずっと、この世界にひとりでいた。そのことを思うと、海人も胸が詰まった。 「藤原くんにとっては災難だ。あまり喜んじゃいけないか」  佐井賀は苦笑したが、海人は首を振った。 「いえ、おれも佐井賀さんに会えるのを心の支えにしてました」  佐井賀が小さく頷き、海人は思い出したように続けた。 「実は、佐井賀さんが日本人じゃないかもって思ってたんです。名前が『アフロディーテ』て聞いてたんで……だから、同じ世界の人間だって証拠を持って来たんですよ」 「なに? 見せて」  海人はポケットからスマホを取り出した。佐井賀に電源の入らないスマホを渡す。 「これって……」  スマホの裏表を確認して、海人を見た。 「え、これはなに?」 「え⁉」  予想外の反応をされてしまい、海人は焦った。 「なにって、スマホです!」 「スマホ?」 「ケータイですよ!」 「ケータイ⁉ これが⁉」  佐井賀がいた日本ではまだスマートフォンは普及していなかった。携帯電話と言えば、折り畳み式が主流であり、タッチパネルではなかったらしい。佐井賀がこちらの世界に跳ばされて、まもなくして流行しはじめたものだ。海人からすれば、携帯といえばスマホである。まさか、スマホを知らないとは思わなかった。彼はガラケー世代の人間だった。  佐井賀は滑らかな黒い画面を指で撫でながら、海人に返した。 「はあ。現代日本って、こんななんだ。僕、今、帰れたとしても、ついていけないな。時代の流れってすごいね」 「佐井賀さんは十五年前にここに来たって聞きました」 「そうだね。十六のとき。藤原くんは何歳?」  海人でいいです、と言いながら、この世界で十八歳になったことを伝えた。 「似たような年か……」  佐井賀は少し考え込むようにした。 「ところで佐井賀さん。訊きたいことあるんですけど」  海が神妙な声で言うと、佐井賀は少し構えた。海人は訊く。 「なんでアフロディーテって名乗ってんですか」 「訊きたいの、そこ⁉」  佐井賀は思わず突っ込んだ。 「帰る方法とか、どういう状況で飛ばされてきたのかとか、もっと他にあるでしょ⁉」  しかし、海人にとって重要なのはそこではなかった。 「だって、おれ、ほんとずっと、女性だと思ってて! 『アフロディーテ』ってどんな美人だろうって、想像して……! イリアスも言ってくれないし! てか、なんで先に教えてくれなかったんだよ!」  大人しく会話を聞いていたイリアスに火の粉を巻き散らす。 「性別は訊かれなかった」  火の粉はあっさり振り払われた。  むう、と海人が膨れた。佐井賀がそれを見て笑う。 「僕は劇団に入っててね、ちょうどそのとき、男だけの劇でアフロディーテの役をやってたんだ。名前を訊かれて、咄嗟に答えたのがそれ」 「なんで本名、言わなかったんですか」 「どんな世界かわからないのに、ほんとの名前なんて怖くて言えないよ」 「…………」 「それに、アフロディーテが愛と美の女神だって知ってるなら、ふざけるなって言うもんでしょう。それが誰も疑問に思わない。ここは僕の世界じゃないってことがわかった」  海人は佐井賀の警戒心の強さに舌を巻いた。自分は本名を名乗ることが危険などとは頭の片隅にもなかった。それを十六歳という年齢で、そこまで考えたのか。 (すごく頭の良い人だ) 「でも、今じゃ後悔してるよ。誰も僕をほんとの名前で呼んでくれない」  佐井賀は苦笑いした。  自分で招いた種だが、まさかここまで定着するとは、とブツブツ言った。 「イルにも教えたのに、ちっとも呼んでくれないしさ」  恨めし気に見る。 「まわりがディーテ様と言っている中で、私だけ違う名で呼ぶのはおかしいだろう」  佐井賀はまあね、とだけで済ませた。グラスの果実酒を一口飲み、イリアスを見る。 「海人くんにも第五の霊脈はある?」 「ある」 「てことは、ユスにも視えてるわけか」  ユリウスの名前が出て、海人はどきりとする。 「海人くんは、僕たちに特別な能力があるのは知ってる?」 「知ってます。魔力を付与できるんですよね」  うん、と頷き、佐井賀はチラとイリアスを見て、海人を見た。 「方法は聞いた?」  海人はためらいがちに告げる。 「えと、この前、イリアスに魔力をあげたんで……」 「えっ⁉」  佐井賀は大きく目を開き、イリアスをギッと見た。 「なに、もう、やっちゃったの!?」  イリアスは佐井賀からわずかに顔を反らした。 「手ぇ早すぎ!」  わああああ、と海人は心の中で叫んだ。顔が火照る。 (言い方! その言い方はやめてほしい!)  海人が心中穏やかでない中、佐井賀はソファに体をうずめた。 「はあ。いくらなんでも、もう経験させるなんて思わなかったよ」  だから、言い方! と海人は声を大にして言いたかった。  佐井賀の非難がましい目に、イリアスは言い返した。 「緊急事態だったんだ。カイトには申し訳ないと思っている」  佐井賀が同情の目で海人を見た。 「海人くん。あんなのいきなりされて、びっくりしたでしょ」  あんなの、という言葉に海人はもごもごしながら俯いた。それまで無表情だったイリアスが明らかに不機嫌な顔になった。 「あなただって、人のことは言えないでしょう」  ぴくっと佐井賀は眉を動かした。 「なに。あのときのこと、蒸し返す気?」  佐井賀は面白くなさそうに言った。 「あのときはしょうがないでしょ。ほんとにどうしようもなかったんだから」 「だからそれと同じだと言っているんだ」  険悪な雰囲気になり、海人は仲裁するつもりで割って入った。 「あの、おれのことはいいんです。イリアスのおかげで、怪我人もでなかったし……」  海人は一度言葉を切り、思い切って聞いてみた。 「昔、何があったんですか? 佐井賀さんもイリアスに力をあげたことがあるんですよね?」  海人の問いに、イリアスと佐井賀が押し黙った。  沈黙が流れる。  海人は教えてもらえないのか、と消沈しそうになったとき、佐井賀が口を開いた。 「イルから話した方がいいんじゃない?」  イリアスは黙考し、わかった、と言った。  そして語ってくれた。七年前に起こった事件のことを。

ともだちにシェアしよう!