43 / 63

15

 先に朗さんが帰った後、その夜も慧のために夜食を作った。表向きには慧のためじゃなく、練習後にお腹が空くし、何と言っても一人での食事は味気無さすぎるからだ。  だけどそれは単なる言い訳にすぎず、本当はまだ慧と一緒にいたいだけだったりする。 「弓弦、洗ったの貸して。拭くから」 「あ、うん。ありがとう」  食後の食器を俺が洗って、慧が拭いて。二人並んで流れ作業をしている間も、胸のドキドキは治まらない。洗った食器を手渡す時に軽く手が触れただけで、 「あ」  ドキドキの心拍数は、うなぎ登りに上がっていく。  時刻はそろそろ日付が変わろうとしている頃で、練習していた時とは打って変わって静かな時間が流れていた。どうやら訳もなく緊張してるのは俺だけのようで、機嫌が直った慧は鼻歌で新曲を歌いながら、いつもの調子で飄々としている。  食器が洗い終わってもまだ、慧が帰る気配はなかった。二人、リビングで音楽を聴きながらくつろいでいる時も、ご機嫌な慧の鼻歌が聞こえてくる。 「……ふっ」  思わず軽く鼻で笑ってしまったら、慧がいつになく真剣な顔で俺を見てきた。  さっきよりも速い胸の鼓動。このドキドキ、ひょっとして慧にも聞こえてしまってるんじゃないかな。 「け、慧?」 「ん?」 (な、なんか近いんですけど)  俺の呼び掛けに慧は何故か耳じゃなく、顔を真正面から近づけてくる。鼻先3センチ。そんな微妙な距離でぴたりと止まって、 「ち、近くない?」 「そう?」  俺がそう言うととぼけたくせに、慧はニヤニヤ笑いながらゆっくり俺から離れていく。 「……弓弦、顔真っ赤」 「なっ!」 (だっ、誰のせいだ、誰の)  慧はいつもの余裕の顔でケタケタ笑って、ゆっくりと(うつむ)いた。周りの音が一瞬消えて、 「……ふっ」  慧の鼻から抜けた笑いを含んだ吐息を合図に、止まった時間が再び動き出す。  思えば、これが俺たちの始まりだったのかも知れない。この時は慧の気まぐれだと思ったこの行動の意味も、俺には全く分からなかったけれど。 「……いいな。弓弦は」 「え?」  慧は俯いたままでそう言うと、長い前髪を指先で集めて顔を隠した。  俯いたまま、 「弓弦はいい」  そう、まるで呪文のように何度も呟いている慧を前にして、俺は少しだけ考えてみる。この場合のいいは俺が羨ましいと言う意味なんだろうけど、俺には最高だとか、その言葉通りの良いの意味に聞こえてしまった。  つまりは慧が俺のことを……、とか。なんて言うか、うん。

ともだちにシェアしよう!