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先に朗さんが帰った後、その夜も慧のために夜食を作った。表向きには慧のためじゃなく、練習後にお腹が空くし、何と言っても一人での食事は味気無さすぎるからだ。
だけどそれは単なる言い訳にすぎず、本当はまだ慧と一緒にいたいだけだったりする。
「弓弦、洗ったの貸して。拭くから」
「あ、うん。ありがとう」
食後の食器を俺が洗って、慧が拭いて。二人並んで流れ作業をしている間も、胸のドキドキは治まらない。洗った食器を手渡す時に軽く手が触れただけで、
「あ」
ドキドキの心拍数は、うなぎ登りに上がっていく。
時刻はそろそろ日付が変わろうとしている頃で、練習していた時とは打って変わって静かな時間が流れていた。どうやら訳もなく緊張してるのは俺だけのようで、機嫌が直った慧は鼻歌で新曲を歌いながら、いつもの調子で飄々としている。
食器が洗い終わってもまだ、慧が帰る気配はなかった。二人、リビングで音楽を聴きながらくつろいでいる時も、ご機嫌な慧の鼻歌が聞こえてくる。
「……ふっ」
思わず軽く鼻で笑ってしまったら、慧がいつになく真剣な顔で俺を見てきた。
さっきよりも速い胸の鼓動。このドキドキ、ひょっとして慧にも聞こえてしまってるんじゃないかな。
「け、慧?」
「ん?」
(な、なんか近いんですけど)
俺の呼び掛けに慧は何故か耳じゃなく、顔を真正面から近づけてくる。鼻先3センチ。そんな微妙な距離でぴたりと止まって、
「ち、近くない?」
「そう?」
俺がそう言うととぼけたくせに、慧はニヤニヤ笑いながらゆっくり俺から離れていく。
「……弓弦、顔真っ赤」
「なっ!」
(だっ、誰のせいだ、誰の)
慧はいつもの余裕の顔でケタケタ笑って、ゆっくりと俯 いた。周りの音が一瞬消えて、
「……ふっ」
慧の鼻から抜けた笑いを含んだ吐息を合図に、止まった時間が再び動き出す。
思えば、これが俺たちの始まりだったのかも知れない。この時は慧の気まぐれだと思ったこの行動の意味も、俺には全く分からなかったけれど。
「……いいな。弓弦は」
「え?」
慧は俯いたままでそう言うと、長い前髪を指先で集めて顔を隠した。
俯いたまま、
「弓弦はいい」
そう、まるで呪文のように何度も呟いている慧を前にして、俺は少しだけ考えてみる。この場合のいいは俺が羨ましいと言う意味なんだろうけど、俺には最高だとか、その言葉通りの良いの意味に聞こえてしまった。
つまりは慧が俺のことを……、とか。なんて言うか、うん。
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