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 スイートの前室は心を落ちつかせるような明かりに照らされている。鍵をあけると同時にすべての部屋に照明が灯ったはずだ。前方で影が揺らいだような気がして遠夜の足は一瞬凍りつき、すぐにそれが鏡に映る自分の姿だと気づく。今日の昼までここには何人ものスタッフが出入りしていた。作戦が一段落した今は誰も残っていないし、形跡も残されていない。  誰の目にも触れない安全な場所にいる。そう思うとほっとして、遠夜はハイヒールを脱ぎ捨てた。仮面をむしりとり、ケープを肩から滑り落とす。アクセサリーについてはもっと慎重に扱った。見かけはただのイヤリングやネックレスにみえて、実態は電子機器、仕事用の小道具だ。前室の壁に備え付けられたキャビネットをあけて所定の場所にしまい、ウイッグも外す。腰をかがめていまいましいストッキングを脱ぎ、ガベージバッグに投げ入れる。  やっと広いリビングに足を踏み入れた。ダイニングテーブルの横をすり抜け、ベッドルームにつながる浴室をあける。  ドレスを脱ぐのにすこし手間取った。着るときはここに詰めていたスタッフの手を借りなくてはならなかったしろものである。下着は女物ではないが、ドレスにひびかない特別製のものだ。あらためて眺めるとどことなく卑猥な印象を受けた。遠夜は大理石の洗面台に向き合い、昼間スタッフにほどこされた化粧を落としはじめる。クレンジングと洗顔をくりかえしたあと、額縁のような金の意匠でふちどられた鏡の中に自分の顔をたしかめた。高慢な資産家令嬢は消え去り、二十八歳になったばかりの男の顔が映っている。  香西遠夜(こうざいとおや)。GETOの内部組織〈スコレー(Scholē)〉所員。  スコレ―は環境変動についての調査研究部門という位置づけだが、実際の業務は一般的に想像される範囲をはるかに超えている。たとえば今日の仮装パーティのような作戦――数年来尻尾をつかめなかった大物工作員の顔をあぶりだすようなこともする。GETOは世間一般には環境問題を解決するための国際機関と思われていて、実際その通りなのだが、近年「環境」というテーマはテロ活動や政治工作と容易に結びつく、もっともホットな領域でもある。  鏡の中の目が遠夜に問いを投げかけた。  どうしてこんなところで、こんな仕事をしているのか。  任務が終わったあとにはよくあることだ。遠夜はいつもの答えを心のうちでくりかえす。けっして声に出したりはしない。ある程度は選んだことであり、ある程度は成り行き、そしてその根底には十代の頃の自分の愚かさが横たわっている。さっきまで遠夜が演じていた「令嬢」にも、若干似たプロフィールが与えられていた。真実を少し混ぜれば、偽装は見破られにくくなる。スコレーは抜け目がない。  シャワーを浴びてボクサーパンツを履き、用意されていたパジャマを着た。作戦の経緯はすべて電子機器で逐一送られている。今夜はもう眠るだけ――しかし浴室の重い扉を押しあけた瞬間、遠夜の体は硬直した。  誰かが部屋にいる。  警報が響き渡ったように全身が緊張するが、遠夜は表情を変えずに、扉をあけたまま一歩あとずさる。キングサイズのベッドとその隣のソファを凝視し――そして肩にこもっていた力を抜いた。 「クリス。こんなところで何をしているんですか」 「怖がらせたか? 悪かったな」  いつのまに、なぜ、どうやって。訊ねたところで退屈な答えが返ってくるにちがいなかった。クリストファー・E・スタインは〈スコレー〉の大物だ。本来なら一介の所員にすぎない遠夜が直接話せるような人間ではない。  遠夜はわざと音を立てて浴室の扉を閉めた。ベッドルームにはついさっきまでなかった香りが漂っている。 「作戦成功おめでとう。〈レベッカ〉」  コードネームを呼ばれ、遠夜はしかめっつらをする。 「嫌味ですか? あんたは現場に来るような立場じゃないし、俺はチームのひとりにすぎません」 「そんなこともないさ」  男はベッドの横の一人掛けソファに腰をおろし、足を組んでいた。精悍な顔立ち、太い首、見るからに仕立てのいいシャツが筋肉質の肉体を隠しているが、男女問わず惹きつけてしまう磁場のようなものはすこしも隠せていない。 「ひさしぶりの再会だというのにつれないね」 「一年も経っていないでしょう。この国にいたとは知りませんでした」 「一週間前に到着した。それからずっとこのホテルだ」 「そんなことは――」  聞いていない、という言葉を遠夜は飲みこんだ。クリストファーが何をしようと、どんな作戦に関わっていようと、遠夜は知る立場にはない。それでも素早く思考をめぐらせ、この男がここで何をしていたのか――いるのか、考えようとした。 「ひょっとして今日の作戦の影で、あんたが指揮する別動隊が動いていたとでも?」 「察しがいい」クリストファーはにやりと笑った。「しかし――」 「俺には知る権限がない、ですね?」  遠夜は先を越される前にすばやくいい放つ。男から発せられる磁場を避けるように、キングサイズのベッドの端に腰をおろす。 「で、どうしてここに?」 「ハロウィンの夜だ。愛弟子が魔女に捕まっていないかたしかめに来たのさ」  そういったクリストファーの表情は一瞬だけ、おどろくほど無邪気にみえた。遠夜は眉をひそめた。 「嫌な冗談ですね」 「きみの今度のバディはどうだね?」  次はその話か。遠夜は無表情を保ち、ベッドの上であぐらをかく。 「大神ですか。問題ありませんよ」 「うまくやれそうか?」 「そんなに信用ありませんか? 俺の相方が二度変わったのは俺のせいじゃない」 「もちろんその通りだ。きみに問題があるとはいっていない」 「じゃあこれは大神の査定の一環ですか。それともあいつの部屋にも、俺について問いただす上司が来てるとか?」  クリストファーは薄く笑った。 「ちがう。しばらく会っていなかったから会いに来た。それだけだ」  遠夜はうかつにも正面からクリストファーをみつめてしまった。角度がすこし変わるだけで意味合いの変わるような、魅力的な微笑みに、これまでどれだけの男女が惑わされてきたのだろう。 「あんたは……」  言葉が続かず、そっぽを向こうとしたが、視界の端から男は消えない。遠夜はあきらめてベッドから降りた。 「何か飲みますか?」 「私のせりふだな。先にやらせてもらったよ」  クリストファーはタンブラーを持ち上げた。遠夜は首を振ると隅のカウンターに向かい、炭酸水のペットボトルの栓をねじった。ボトルに直接唇をつける。チリチリした衝撃が喉を流れ、消えていく。 「どうして俺なんかに会いに来るんです」  立ったままつぶやく。クリストファーの顔から笑みが消えている。今は両足が床を踏み、軽く腕を組んでいる。シャツが広い肩と厚い胸を覆っている。布の上からでは引き締まった腹はみえない。それでもこの男がまとうかすかな香りは遠夜の気持ちをかき乱す。 「なぜそんなことを聞く?」  今度は口元も目も笑っていないのに、声だけはからかうような響きだった。 「あんたに会いたがる人間くらい、掃いて捨てるほどいるのに」 「きみがそうではないとしたら残念だ」 「からかわないでください。昔から……あんたは……」  俺が逆らえないのを知っているくせに。遠夜はそう口に出そうとするが、また目があってしまう。射貫かれるような視線だ。 「時間を無駄にするな。会えるのは今夜だけだ。おいで」  卑怯なほどの磁力だ。ペットボトルを持ったまま、遠夜は男の前に立つ。男は手をのばしてペットボトルを――いや、遠夜の手首をつかむ。前かがみの軽いキスはかすかにアルコールの味がする。 「遠夜」  唇のすぐそばで囁かれた声に首のうしろの皮膚が反応した。体に刻み込まれた甘い記憶が呼び覚まされる。 「綺麗な名前だ」 「逆だ。ろくでもない名前――」  クリストファーが立ち上がるとたちまち視界が暗くなる。大柄な男は遠夜をキングサイズのベッドに押し倒し、上にのしかかる。唇――舌が押しつけられ、絡んできて、遠夜はこれまで何度も確認したキスの威力をまた、いやというほど知ることになる。  歯のあいだを舌で嬲られるだけで、体が勝手に熱くなる。震えが背筋を下ると遠夜はたまらず腕をのばし、もっと深いキスをねだる。しかし組み敷いている男はもっと冷静だ。布がこすれる音が聞こえる。たくましい肉体を一瞥したとたん過去の快楽の記憶と欲望がわきあがり、遠夜はそんな自分を一瞬恥じる。じっとみつめる視線が耐えがたく、目を閉じた。会うたびに、何もかも見通されているような気がする。 「綺麗だといっただろう」  耳の穴に舌の動きを感じたとたん、遠夜の背中はびくりと跳ねるように動いた。 「きみは最初から……今も……綺麗な男だ……」  

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