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第3話 秘密主義者

「雪隆、最近、随分と敦之の花の印象が変わったな」  振り返ると父がいた。 「評判もとてもいいですよ。駅の地下通路の作品やホテルなどの展示も」 「そのようだ。これで安心だよ」 「……えぇ」  今年で父は引退をする。そして、代わりに兄が当主になる。  僕はその秘書として。  ここは僕の家でもあり、仕事場でもある。我が家は境界線が曖昧だ。父と子であり、家元と仕える者でもある。家であっても、決してリラックスできるものではなく、いつでも気を張っていないといけない場所。  けれど、別段、父は厳しい人ではないし、寛容で朗らかだ。兄と性格でなら似ているところがある。容姿は僕も兄も母の方の血を色濃く継いでいるかもしれない。今は女流作家として活躍している母はモデル時代に父と知り合い結婚をして、世継ぎ……なんて、ずいぶん古めかしい言い方だけれど、確かに世継ぎを産んだ。 「お前のおかげだな」 「……いえ、僕は何も」 「昨日も夜遅くまで仕事だったんだろう? お前は敦之に比べると随分と細いから、体調には気をつけなさい」 「はい……ありがとうございます」  朗らかに、兄と同じ笑顔で、父はそれだけ言うと部屋へと戻っていった。 「……」  昨日は確かに仕事は夜まであったけれど、でも――。 「……ふぅ」  朝帰りは少しはしゃぎすぎたかな。  彼に、昨夜は「手伝い」をしてもらったから。  最初に手伝ってくれたのは、まだ僕が高校生の頃だった。突然、言われたんだ。  ある日、うちに遊びに来ていた彼が庭の奥で百合の手入れをしている僕のところにやってきて、突然、「手伝ってやろうか?」って。僕はなんのことかわからなくて戸惑っていた。彼は煙草を吸おうと思ったようだった。手には煙草があったから。多分、広大な庭のこんな奥ならば誰にも見つからないって思ったんだろう。けれど彼はその煙草をしまうと、僕を見て、庭に咲いていた百合の花びらにそっと触れながら。  ――欲求不満の解消の。  そう囁いた。僕が家の中で一番好きな場所、薔薇園の中で、ほんのわずかに花の香りが漂う中で。  僕は一瞬聞き間違えてしまったのかと思ったんだ。百合は花粉がすごいから。触れてしまうと指についてしまうのにって、汚れてしまうと目が彼の指先ばかり見つめていたから。  誰にも知られていないって思ったのに。誰にもバレていないと思っていたのに。すごく、すごく気をつけていたのに、彼は気がついていた。  僕が同性愛者だってことに。  けれど、それを隠し女性を好きなフリをして、兄をいつか悩ませてしまうだろう「世継ぎ」問題を僕が全部引き受けようとしていることを、彼はわかっていた。  そして、不敵に笑う彼に僕は頷いた。  頷いてしまった。  初めては、彼のうちで。  手でしてもらった。それはとても気持ち良くて、ずっと欲しいけれど我慢していた甘いお菓子を頬張るように、何度も彼の手を貸してもらったのを覚えてる。  ――キスは? いつかの時に取っておくか?  そう尋ねられて、僕は――。  突然、テーブルに置いていたスマホがけたたましい振動音を響かせて、飛び上がった。電話は、彼からだった。 「……はい、もしもし」 『今、忙しいか?』 「いえ」  環さんの声に雑音が重なる。外からかけてる、のかな。彼もとても忙しい人だから。 「どうかしましたか?」 『いや、昨日、少しやりすぎたなと思って』 「……」 『今日、仕事に支障が出てたらと心配した』  無敵で、凛々しく、逞しい人。でも、すごく優しくて。 『お前の仕事、案外、力仕事があるだろ?』 「心配してくださったんですか? それなら昨夜あんなにたくさんしなければよかったのに」 『あのなぁ』 「大丈夫ですよ」  今朝、普通に帰れていたでしょう? シャワーを浴びて、セックスをして、僕は三回達して、貴方は二回。またその後シャワーを浴びて、そのシャワールームでもした。たくさんしたけれど、でも、とても気持ち良かったから。 「案外、力仕事の多い家業なので体力には自信があるんです」 『……』 「いつも手伝ってくださりありがとうございます」 『……あぁ』 「それじゃあ、僕はそろそろ」 『あぁ、すまない』  貴方は謝ることなんてない。  貴方はただ手伝ってくれただけなのに。何度も付き合わせてしまって。ずっとずっと手伝わせてしまって。  好きだから、何度も貴方に頼んでしまう。初めての時からずっとずっとそう。  ――キスは? いつかの時に取っておくか?  取っておくわけないでしょう? その「いつか」が訪れないからじゃない、ファーストキスなんてどうでもいいって思っているわけでもない。好きな人としたかった。だからキスをした。  貴方に。  歳はあまり離れていないはずなのに、彼のことがずいぶん大人の男に見えたっけ。兄の隣にいる、不敵な彼。黒い百合のように気高いその人に僕は一目惚れをしたんだ。まだそれは僕がうんと小さい頃のこと。  彼は薔薇のように華やかで華麗な僕の父とも母とも、兄とも違っていて、とても異質で目を引いたんだ。  これは彼だって知らないこと。 「こちらこそ、ごめんなさい」  そう小さく、呟いて、彼が声をかけてくれた百合園へ視線を向ける。  彼の部屋で、彼が尋ねた、キスはいつかの時に取っておくか? と。僕は慌てて、首を横に振った。取っておかないって、小さく小さく囁いて、下手くそなファーストキスを彼とした。  歯がぶつかってしまったし、とても必死すぎておかしな顔をしていたんでしょう? 彼は笑っていたけれど。  ――雪。  そう囁いて、二回目のキスは彼がしてくれて、とても上手で、とても気持ち良くて、僕はあまりの心地良さに彼の手の中で達してしまったけれど。  嬉しくて仕方なかったっけ。夢のようだった。  だって、彼は僕の初恋の人だったから。

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