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第4話 快楽主義者
――今夜は空いてるか?
仕事中にそんなメッセージを受け取って、つい、胸を弾ませてしまった。
珍しい。環さんにはこの間「手伝い」をしてもらったばかりなのに。あの人がそういう相手に困っている、なんてことないだろうし。どうしたんだろう。なんてことを考えていたんだ。
「――以上が明日の予定です」
「あぁ」
今は兄をとある駅へと送っている最中。
「雪隆、今日はずいぶん機嫌がいいな」
「……そうですか?」
「あぁ、とても」
僕は明日の兄の予定を確認していながら、明後日以降の兄のスケジュールをタブレットで確認していた。
顔を上げると兄が車の外の景色を眺めながら、僅かに口元を綻ばせている。
「……兄さんこそ、ご機嫌ですね」
「あぁ、ご機嫌だ」
こんなに嬉しそうな顔をした兄を見たのはいつぶりだろう。「彼」に会いに行く時の兄はとても嬉しそうで、そして、その嬉しさを隠そうともしない。
「今日は、スペイン料理を食べに行こうと思うんだ」
「……そうですか」
その恋が壊れないでいてくれたらいいのに。でもきっとそのうち壊れてしまうんだろうなと思うと、兄のたまらなく嬉しそうにする顔を見るのが少し辛くて。兄を丸ごと受け止めてくれる人なんてそうはいないだろうから。これからどんどん露出は増えていく。私生活、プライベートと仕事の境界線はどんどん滲んでぼやけていくんだろう。そうなれば恋人だって……。
「気に入ってくれるといいんだけどな」
「……」
相手は途端に怖気付いてしまうんだ。身バレは少々困ると。家族には話していないからと。職場にバレてしまうのはちょっと……と言葉を濁し、表情を曇らせ、兄を傷つける。いつもそうだ。喜びが大きければ大きいほど、落胆、悲しみも大きくなるから、いつしかその喜びを小さく、できるだけ小さくしていた兄が今、それをとても嬉しそうに胸に抱えてる。
「……そうですね」
願わくば、今度こそ、喜びだけが大きくなればと。
兄を駅へと送り届け終わると僕の仕事はとりあえず終わりとなる。でも、まだ少しだけメールの確認をしたりしないといけなくて。だから、環さんと待ち合わせたホテルのロビーでそれをしていた。
「まぁ、弁護士を?」
甲高い女性のはしゃいだ声が聞こえた。そんなものに普段ならいちいち反応はしないけれど、弁護士って単語が聞こえたから。顔を上げれば、ほら。
「えぇ、もしよかったら名刺をお渡ししましょうか」
「ぜひ」
環さんだった。
胸の内ポケットから慣れた仕草で名刺を取り出し、手渡すと、女性が上品に微笑みながらそれを受け取った。すらりとした美人。艶のある長い髪。真っ赤な口紅。近づいたら、香水の甘い香りがしてきそうだ。僕は嫌いな甘い甘い人工物の香り。
エスカレーター式の学校だったから、歳の近かった僕はずっと、兄と彼の様子を追いかけるように見てきた。二人ともモテてたっけ。いつでも女子人気がすごくて、行事の度に騒がれていた。でも兄は恋愛対象が同性だったから女性から人気が出ても振り向くことはなく。またそれが素敵って喜ばれてた。環さんはその逆、モテてた数と付き合った女性の数が比例する。彼女というものがいなかったことなんてほとんどないんじゃないかな。今、ああして女性が目をハートにして彼を見上げる場面を何度も目撃してきた。環さんはゲイ、じゃない。でも、僕の「手伝い」はしてくれる。
「お待たせ」
「……いえ、仕事をしてたので」
「ふーん……妬けた? 彼女、ここのホテルのエントランスで垣根に日除けのストールが引っかかって困ってたんだ」
「別に、どなたですか? なんて尋ねていません」
「そうか?」
「えぇ、そうです」
「その割には、仏頂面だぞ」
楽しそうに笑ってる。
「そんなことないですよ? 兄には機嫌が良さそうだと言われたくらいです」
「敦之に?」
「……えぇ」
しまった。失敗した。つい、本音が。
「今夜、俺に会うから?」
そうだって言ったら、また笑うかな。それとも驚く? もちろん言わないけれど。
「いいえ。最近、兄の作品がすごく評判がいいからです」
俺はただ「手伝い」をしているだけなのにと戸惑うかもしれない。
「へぇ、そうなんだ」
「えぇ」
「けど、その割には今、不機嫌そうだけど?」
本当は貴方のことが好きで、貴方は僕の初恋で、女ったらしの貴方の周りに群がる彼女らを蹴散らして独り占めしたい、なんて、こっそりと思っていたとか言ったら、どうします? 引く? それとも、困る?
「これは貴方はバイなのかなと考えていただけです」
僕の手伝いをしてくれる。調べたわけじゃないけれど、でも、環さんの相手で「男」は多分僕だけだ。兄も環さんは女たらしだと言っていたし、僕が目撃したことのある相手はどれも女性。男は僕だけ。だから、どうなのだろうと、バイなのか、それとも――。
「俺はそういうのないな」
「?」
「気持ち良いことが好きなだけだ。快楽主義ってやつ」
「……」
「それから」
あぁ、だからだ。だからやっぱり、と大慌てで僕は胸の内でさっき問いかけた言葉たちを仕舞い込んだ。畳んで小さく小さく。いつもなら胸の内でさえ広げない言葉たちなのに、つい広げてしまったんだ。
――今日はずいぶん機嫌がいいな。
そう兄にも言われてしまうくらい、この間会ったばかりの彼とまた会えることに胸を弾ませてしまっていたから。
「綺麗なものが好きなんだよ」
バカだな、僕はって、少し呆れた。
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