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第5話 綺麗な

「明日は少しゆっくりできそうですよ。 明後日からは海外出張もあるし、 その間にいくつか講習会の予定も入っていますから、 今のうちに」 「あぁ」  今日はまた、声のトーンがずいぶんと。  ずっと雲ひとつない青空のような上機嫌だったのに、 ここのところ灰色のどんよりした雲り空のような表情をしている。 忙しさのせいかと思っていた。 だから明日は 「時間」 を作ってあげたのに。「彼」 と会う隙を、 ちょうど週末に合わせて作っておいた。 予定は一週間前には知らせてあった。 だから水曜の辺りにいつもどおり「彼」へ連絡をしているものだと思っていた。  でもこの様子だと連絡をしていないようだ。  いや、もしくは連絡をしたけれど、都合が合わなかったとか? 「何か、ありましたか?」  ただ、この曇り空は会えないことでのストレスとは違うようだった。  もう終わってしまった、 のだろうか。 あのはしゃぎ方だ。 とても嬉しそうにしていた分、 かなり好みの相手なようだったから早々に打ち明けてしまった、とかなんだろうか。 「いや、 何もないよ」  でも、ちっとも、何もないって顔じゃない。 「明日、どうされますか? 仕事が終わりましたらどこか」  何かあった。青空が一変して曇り空に変わるような何かが。  だから、もう一度、確認するように明日の仕事の後、駅へ車で向かう必要があるのかを訊こうとした。 「雪隆」 「はい」 「お前はダイエットってしたことあるか?」 「はい? なんなんです? 急に」  曇り空のような表情を窓の外に向ける。 今日は猛暑日になると言っていた。 今はお昼過ぎ、 外にはビジネス街へと戻っていくランチ終わりのサラリーマンが暑そうに歩いている。 ハンカチで首筋を拭う人。日差しに迷惑そうに顔をしかめる人。それを眺めて兄は困ったように少し笑っている。 「ないです。ダイエット、するんですか?」  外を行き交う人を刺すように降り注ぐ強い日差しに目を細めて。 「……もう止めておこう。そう思うのに、もう一口、あと一口って、食べてしまう。あとで後悔するのに。あの時止めておけばよかったって」 「そんなの、ダイエットに適したお菓子だって売ってるでしょう? そういうのを買って、満たせばいいじゃないですか」 「それじゃダメなんだ。甘くて、バターも砂糖も蜂蜜だって、シロップだってたっぷりのケーキがどうしても食べたいんだ」 「まるで我慢のできない子どもですね」  困ったように、でも。 「あぁ、そうなんだ。我慢のできない子どもみたいだな。もう、止めたほうがいいのにな……」  そう告げる兄の表情は少しだけ晴れ間が覗いたようにも見えた。 「……もう夕方、か」  うたた寝をしていた。自室で、今、海外へ出張中の兄へとメールを送って、それからしばらくデスクで眠ってしまっていた。  兄は依然、「彼」とは会っていないようだった。もちろん、この間、せっかく空けたスケジュールの日もそのまま帰宅してしまった。  やっぱりダメになってしまったのかもしれない。  ―― あぁ、そうなんだ。我慢のできない子どもみたいだな。  もしくは自分からダメにしたのか。  とにかく曇り空のような表情のまま出張した。戻ってきたところであの曇り空は変わることなんてないんだろう。  あんなに嬉しそうに週末を楽しみにしていたのに。  けれど、兄は知っていたはず。そんなこともう何度も味わっていたのに。楽しみにすればするほど、今度はそれがなくなった時の喪失感と悲しみも大きくなってしまう。だから、ずっとそれから自分を遠ざけていた。  僕は最初からそれを味わうことはしなかった。  いつか食べられなくなるお菓子なら最初から食べないほうがいい。味を知らなければ、欲しくなることはない。僕が今、環さんにしてもらっているのは「おままごと」だ。行為は同じだけれど、食べる真似をしているだけ。一緒に時間を過ごし、パートナーとして振る舞う真似事をしているだけ。  あの人が女好きでよかった。快楽を好むだけの人でよかった。  僕の初恋にほんの少しの希望もくれなくて、よかった。  そのおかげで、いつか終いにしないといけない日が来ても、きっと大丈夫。きっと後腐れなく、誰かと結婚できる。彼にとってはセックスの相手を一人失っただけのことだから。「手伝い」を終いにするだけのこと。  ――雪。 「っ……ン」  兄のあの曇り空が僕のところにも来てしまったのかもしれない。  普段はこんなに気持ちが沈まないのに。わかっていたことだし、決めていたこと。だから、今だけあの人に相手をしてもらおうと。  なのに、思考が沈んでいく。今だけだと味わうことよりも、この先の我慢を考えて、どんよりとした曇り空が胸の内に広がっていく。  そろそろだから、かな。  そろそろ、ちゃんとお終いにしないといけないから。  もう、こういうのも。  ―― 中、すげぇ熱くて、トロットロ。  こういうこと。 「はぁ」  溜め息にじっとりとした熱が染み込んでる。この前、「手伝い」をしてもらったばかりなのに。あんなにたくさんしてもらったのに。  だからかな。  たくさんしてもらって、まだ彼に抱いてもらった感触が身体に、印が肌に残ってるから。思い出して、火照っていく。  徐にズボンの前をくつろげて、触れると熱い。  熱いのに、でも、触ったところでこれじゃ満たされなくて。 「あっ……ぁ、環、さんっ」  思ってしまうんだ。  できるんだろうかと。僕はちゃんと女性と結婚なんてできるんだろうか。結婚して子どもをもうけるなんてこと、この身体で、ちゃんと。 「あ、あ、あ、あ、奥、欲しっ」  ちゃんと我慢をして、しなければいけないことをできるんだろうか。 「足り、ないっ、あっ……環、さんっっっ!」  この、身体はいうことをきいてくれるんだろうか。  こんなに熱くて、どうにもならないほど、欲しくなる、この身体は。  ――綺麗なものが好きなんだ。  あぁ、でも、そうだ。あの人は綺麗なものが好きなんだっけ。なら、僕の、こんな浅ましいところを知られたら、嫌われるんだろうな。  いっそ、嫌ってもらったら楽なのかもしれないな。

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