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第6話 青い蝶

 自分に花を活ける才能がないのは早々に理解した。それはとてもすんなりと、簡単に。だって隣であんなに見事に花を活ける兄がいるんだ。一緒に花を学んでいれば、まざまざと見せつけられる才の違いに納得してしまうに決まってる。  だから、花を活けることは自分の中でとうの昔に諦めた。 「坊っちゃん、ずいぶん見事に咲きましたねぇ」 「……そうかな」  花を活ける才能はないけれど、でも、花は好きだったから。 「えぇ、とっても見事な百合ですよ」 「山田がいい土を分けてくれたからだよ」 「いやいや」  うちの庭師をしている山田が麦わら帽子を脱ぐと頭を下げた。土は大事だけれど、それだけじゃここまで見事に咲かせられないと笑って、僕が育てた花を褒めてくれる。  華道家らしく、この家には見事な花園がある。山田はずっとうちの専属の庭師を務めている人で、幼い頃は外で一緒に遊んでもらったりもした。 「また、良さそうな品種の百合があったら教えてもらえるかな」 「えぇ、でも、まだまだ咲きそうですよ?」  もう少し堪能できそうですよと山田はにこやかにまた麦わら帽子を被ると庭の手入れへと向かった。  僕は華道家にはならなかった。このレベルで上条の名が付く僕の花を並べるのは、上条の名前にとってマイナスでしかないと判断したんだ。  でも、花なら育てられる。人に見せられるよう整えることはできないけれど、花を自分で育てて愛でることならできるから。  ここに山田から少しスペースをもらって花を育てていた。広大な庭の端、日当たりはいいけれど、屋敷からは一番離れた場所だ。こんな奥は客人も来ることは滅多にないからと好きにさせてもらっている。  実ることのない初恋は子どもの頃にここで見つけた。  ――お前も一緒に来いよ。  兄には友人がたくさんいたけれど、彼だけだった。弟の僕も遊びに一緒に行こうと連れ出してくれたのは。  兄が自宅に誰かを招き遊んでいる中に飛び込んで、一緒に遊ばせて欲しいと頼んだことはなかったんだ。きっと断られると思っていたから。子どもの歳二つの違いは大きな差になる。何か遊ぶにしても、敵わない。走るのだって追いつくことはない。邪魔になるだろうと煙たがられるってそう思っていた。だから、大きな庭を駆け回る兄とその友人を部屋から眺めていた。  ――ほら、行こうぜ。  けれど、あの人は僕の手を引っ張って楽しそうに振り回すんだ。兄の隣で大きく口を開けて笑って、僕のことをこの広く、森のように植物が季節ごとに咲く庭の隅から隅まで、あっちこっちと連れ回す。走るのが敵わなくても、待っていてくれる。どこかに座り込んで、庭の中でひっそりと生きている虫を見つけては僕のことを呼びつけて、ほら見てみろよって。そしてじっと土の上を歩いている虫を見つめながらようやく息が整ったと思ったところでまた走り出してしまう。葉の茂った背丈の低い花木の下へと潜り込んで、高い木がつけた実に手を伸ばして何度も飛び上がって、また走って。彼のことをただ必死に追いかける。  ――今度はあっちに行ってみよぜ。ほら、来いよ。雪隆。あっちにすげぇでかい蝶がいたんだ。ほら! いた!  彼が指さした先には大きな青地に黒い模様のある羽を広げて、花の蜜を堪能している蝶がいた。ゆっくり羽を広げて、閉じて、広げて、蜜を啜っていた。  ――そーっとだぞ?  彼はそっと、その蝶を捕まえようと手を伸ばしてみるけれど、素手で捕まえられるわけがなくて、寸でのところで逃がしてしまう。  ――あーあ。  大きな白いムクゲの花に止まる蝶はひらりと彼の手をかわし、逃げてしまう。そしてまた別のムクゲに留まって、追いかけてくる手を横目にひらりとかわして。  けれど、その蝶はそのムクゲがとても気に入ったのか、ちょくちょくそこで見かけた。  ――また、あそこ行ってみようぜ。  彼はその蝶を捕まえようと、何度もここへ足を運んだ。  僕と見つけたから、僕を連れ出して、庭の一番奥へと。彼の背中をじっと見つめていた。綺麗な蝶を夢中になって追いかける横顔を僕は夢中で追いかけて、ずっと見つめていた。  そして、彼にいつしか恋をした。  ここは僕がそんな初恋を見つけた場所だ。 「それ、切るのか?」  ここでこの人に恋をした。 「まだ綺麗に咲いてるだろ。それに暑い中で帽子も被らずこんなところにいると熱で倒れるぞ」 「……兄なら、今、出張中ですよ。大丈夫です。すぐに部屋に戻りますから。」 「出張中なのは知ってる。土産に酒を頼んだよ」  ここで幼かった僕はこの人に恋をした。 「なぁ、切って活けるのと、このままにするの、どっちの方が保つの? 花って」 「そりゃ……」 「なら、いいじゃん。このままで」  彼は笑って、ちょうど見頃な大きく咲き誇る百合の隣に並ぶ、これから花開こうとする蕾に指先で触れる。 「まだ咲いてられるんなら、このまま」 「……」 「切らずにいれば」  恋を知らなければ、きっと大丈夫だって、そう思ってたのに。 「花、そのままにしとけよ。また、蝶が来るかもしれないだろ?」  実った恋を味わったことはないけれど、実ることのない初恋ならずっとずっと、この胸に――。

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