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第8話 葉が、花びらが (本編29話とリンク)

 出張から帰ってきても兄の曇り空のような表情は直っていなかった。  わからない。  破局、とかとは違っている。落ち込んでいるのとはまた違う、けれど、確かに沈んではいて、なんというか、とにかくいつもの曇り空とは少し違っているような。なんていうのだろう。まるで日差しを遮り続ける分厚い雲に項垂れ、俯く花のような、そんな――。 「兄さん、お父さんは遅れるそうです。花の到着がかなり遅れたみたいで。あとで仕事の後に二人でこっちに来るって」 「……あぁ、そうか。今日の仕事は大きいから」 「えぇ、終わらせないと……先に入ってますか? いつこっちに来られるのかわからないし」 「あぁ」  今日は父の誕生日だった。父も気に入っているホテルのレストランを予約して、ささやかながら、家族団欒で誕生日を祝おうと思ったのだけれど。仕事が押しているようだった。花は生きているから、手配、配送、色々なところでトラブルが起きることもある。けれどそんなのは子どもの頃から華道家の中で育ってきた僕たちにとっては「日常」で、慣れっこだった。 「そうだな。先に行って……」  まぁ、お母さんが一緒にいるのなら、そっちで二人、夫婦水入らずの誕生日でもいいのかもしれない。けれどとりあえず予約はしているからそのレストランへ先に二人で行ってしまおうということになった。 「もしかしたら来れないかもですね」 「……」 「? 兄さん?」  兄がふと、何かを見つけて足を止めた。  僕はどうしたのだろうと、兄の横顔がじっと見つめる先を追いかけて。 「は? 予約してないってどういうことだ」  僕たちが向かっていたレストランの入り口で何やらサラリーマン? の中年男性が声を荒げてる。 「おいおい、俺はちゃんと予約しただろうが。名前を見てみろ」  どうやら予約ミスらしい。中年男性の方は予約はしたのに席がないと暴れてる。けれどレストラン側はその予約をそもそももらっていないと困り顔だ。  恥ずかしい大人だ。  こんな人の往来もある場所であんな風に大きな声で。知性ゼロだな。 「騒がしいですね……」 「……」  兄はその哀れな中年男性の方をじっと見つめたままだった。  確かにあれでは今、あのレストランの従業員に予約をしている者だが、なんて割り込んで言うのははばかられる。少し待った方が良さそうだ。  あの様子じゃまだしばらく暴れるだろうから。けれど席はないのだからどうにもならない。いつかつまみ出されるだろう。 「はぁ? だから、俺はちゃんとネットで予約をした。あと三十分もしたら顧客が来ちまうんだよ」  でもないものはないんだ。  その暴れている中年男性の後ろにもう一人、サラリーマンの男性がいる。こちらは若い。歳は……どのくらいだろう。僕と同じくらいだろうか。けれど、随分とヨレヨレの着崩れたスーツを着ている。いかにも量産品の安いスーツだと一目でわかる。まぁ、あの上司の下で働いてるのだからそれ相応というか。それにあの愚かな上司の下じゃ色々すり減らすんだろう。  かわいそうに。 「…………はぁ? じゃ、俺のミスだっていうのか」  まだ食い下がるのか。すごいな。これだけの人間が面白半分で見学してるとも知らずに。この店がどのくらいのレベルの客が集まるところなのかもわからないような、そんな愚か者を皆がなんだなんだって見物してるってわからないのかな。  とても滑稽だなぁ。  そう思う僕らの目の前をレストランの支配人が横切った。あれだけ騒がれては迷惑だし、営業妨害だ。この騒動を収めに来たんだろう。 「すまない」  その支配人に兄が声をかけた。  父がこのレストランを気に入っているから、もちろん支配人は顔見知りだった。声をかけられ振り返り僕らだと気がつき慌てて頭を下げた。 「これはっ、上條様っ、大変申し訳ございませんっ」 「いや……」 「今、少し手違いがあってようでして、すぐに」 「いや、いいんだ。彼は?」 「もしかしたら予約を別の店舗になさったのかもしれません……」 「そう。何人で予約を?」 「四名様のようなのですが、あいにく本日は」 「それならちょうどいい。私の方の予約をキャンセルさせてくれ。それで個室が空くだろう? 彼らに譲るよ」 「そ、そのようなっ、とんでもないです」 「いや、いいんだ。どうせ、今日は父たちが来られないだろうから。申し訳ないが、どちらにしても二人分は捨てることになってしまうから。あちらに譲りたい。個室料金はこちらの支払いのままでいい。それなら問題ないだろう?」 「ですが」 「いいんだ。それじゃあ行こう。雪隆」 「ちょ、兄さん」  兄さんは驚いて戸惑う支配人をそこに置いてけぼりにして、さっさとレストランを後にしてしまった。僕は慌てて、歩幅の広い兄に急いでついて行った。 「なんで」 「どうせ。父さんたちは来られないだろうし。来られたとしても、しばらく時間がかかるだろう? あちらは早急な様子だった」 「いや、だって……」  だって、なんで知らない彼らにそんなことを? そう言おうと思ったけれど。 「……」  驚いて声が出なかった。  目を細め、どこか苦しそうなのに、どこか嬉しそうなおかしな顔をしていたから。 「父さんには俺から伝えておく。またの機会にしよう」 「……わ、かりました」  どこか嬉しそうなおかしな顔。瞳は何か優しくも澄んだ色をしていて、つい数分前までの曇がどこにもない。 「それでは、僕もここで……」 「あぁ」  その時だった。 「敦之さん!」  その場を立ち去る僕の後ろから兄の名前を呼ぶ声が聞こえた。上條ではなく兄の名前を。  そして、兄はその声に、とても、とても柔らかい表情をした。それは見たことのない、干からびかけた葉が、花びらが、一瞬で息を吹き返すような、そんな瑞々しく、優しい表情だった。  その表情ひとつで、彼が、兄の想う人なのだとわかった。

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