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第9話 それは突然
兄のあんな顔、初めて見た。
――敦之さん!
あのサラリーマンが兄の想っている人なんだと容易にわかった。だってすごく。
「もしもし、お母さん? 今、お父さんはどう? まだ無理そうです?」
すごく、嬉しそうだった。
「すみません。そしたら次の機会にしましょう。兄さんも急用で、えぇ、仕事があって……僕が頼んじゃったんです。ごめんなさい」
すごく、恋をしている顔だった。
「それじゃあ……はい。よろしくお願いします」
電話を切って、一つ深呼吸をした。
正直、びっくりした。兄の相手としては、彼は普通すぎるから。なんの変哲もないただのサラリーマンのように見えた。どこにも特別なところなんてない、普通の人。容姿端麗というわけでもない。身なりだって、そう上流階級という感じではない。もしかしたら、兄が一時の相手として選んでいた人たちよりも見劣りするんじゃないだろうか。なぜそんな普通のサラリーマンにあんなに一喜一憂するんだろう。
彼のどこにそんな魅力があるのだろう。
けれど、もしもあの彼にそこまで執心なら、それこそ……。
「もしもし? 夜に申し訳ない。少し……調べてもらいたいことがあるんだけど」
それこそ、本気なの?
けれど、どう見たってあれは住んでいる世界が違う。見なりも、食事に出かけるレストランだって、なんだって、あらゆるものが違ってる。それでもあんな顔をするくらい想っているのだとしたら、それはきっと一番、兄にとって今まで一番。
「はぁ……」
最も傷つくだろう恋を今、あの人はしている。
「雪隆様、郵便物が来ております」
「あぁ、ありがとう」
我が家の家政婦さんがそっと控えめなノックをすると、ドアのところで一礼して、いくつもの封筒をデスクへと置いた。彼女が部屋を出てから、封筒へと視線を移すと、一つだけ大きな白い封筒があった。
兄の恋人の身辺調査結果だ。
とても申し訳ないけれど一応調べておくようにしている。もしも過去に何かあったらそれを引っ張り出してスキャンダルとする輩は少なからずいるから。テレビなどのメディアへの露出も多く、古く保守的な他の華道の人間からはあまり良く思われていないこともある。主役である花よりも活ける人間が目立ってどうするのだ、と。
それに兄は華道の道に入ると決めてから特に講演会に力を入れて活動している。そう目立つのが好きではない兄だけれど、父と比べても、日本中、世界にもその講演会の機会を広げていっている。上条家が華道家としてここまで露出、知名度、人気が高くなったのは兄の仕事ぶりによるところも多い。
まだ当主ではないけれど、これからはその講習会に上条家当主として壇上に立つことになるのだから、どんなスキャンダルもあってはならない。仕事がなくなることもあり得る重要なことだ。
だから、兄の、一番近くに並ぶ親しい人間はそれなりでなくてはならない。
「……」
名前は、小野池拓馬(おのいけたくま)、二十五歳、今月が誕生日か……。
経歴は至って平凡だった。交友関係にも特に危険性はなさそう。過去の恋人は……確認できず、か。付き合ったことが今までないのかもしれない。仕事は……どうやら経営の雲行きが怪しい会社みたいだ。トラブル等は今の所なさそうだけれど、いわゆるブラック企業なのかもしれない。会社の質に関しては彼本人がどうこうできるわけじゃないだろうけれど、でも、あまり質のいい会社とは言えないだろう。そんなところに新卒から勤めてるのか。
そういえば、スーツはくたびれていたっけ。あの騒いでた中年は上司なんだろう。でもこの会社ならあの上司も納得だ。
彼が我が家の、兄のパートナーに?
僕は……彼は不向きだと思う。
けれど、向き不向きは家として気にしないだろう。いつも通り、寛容で、そして、芸術家らしく全てを柔軟に受け入れる。身分も、恋愛趣向も、考え方も、全て。
だが、彼はどうだろう。
彼の周囲は、どうだろう。
いつもそうだったでしょう? 兄さん。
貴方は魅力的だから、たくさんの人が貴方に引き寄せられるだろうけれど、でもその誰もが貴方には敵わないでしょう? 生まれてからずっと華道家「上条」という名前の元に生きてきた貴方には。
いつも、ある日突然、驚いたように慌てて引き返してしまうでしょう?
それは望まない、それでは困る、そんなことになってしまうのは……と、慌てて、世界はそんなに寛容で柔軟ではないと逃げてしまうのに。
いつだって、そういう類は突然やってくるのに。
――トントン。
控えめなノックが二回、さっき封筒を届けてくれた家政婦さんかと思った。
「雪隆……」
「……はい」
父だった。
「今、少し時間はあるか?」
「……はい」
たしか、今は父に来客があったはず。懇意にしているとある企業の会長で、よく我が家の茶室で茶道を楽しみに訪れている方だ。
「庭の案内をしてあげてくれるか」
「……」
「雪隆? 都合が悪かったか?」
「い、いえ……大丈夫です」
父に連れられて玄関へと向かう。
「会長のお孫さんなんだ。百合が好きなんだそうで、お前が庭を案内してあげなさい」
いつだってそうだ。
「こんにちは」
いつだって、そういう類のことは‘突然やってくる。
「……こん、にち……は」
そういう悲しいこととか、苦しいことは、突然、そして一番油断している時に僕らの目の前に現れるんだ。
こんなふうに、突然に。
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