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第10話 季節が変わる(33.5話 リンク)

 百合が好きだと言っていたその女性は百合だけでなく花にとても詳しかった。趣味と言っていたけれど、懇意にしている会長のお孫さん……だっけ。  その会長が孫である彼女を連れてきた理由。  僕がその彼女を我が家の庭へ案内する理由。  そんなの――。 「――ですね」 「! ぁ、すみません」  考え事をしていて聞いていなかった。申し訳ないと頭を下げると、彼女は「いえ」と柔らかく微笑んだ。 「さすが華道家のお庭ですね。とっても綺麗です」 「……ありがとうございます」 「こんなにお花が咲いてるお庭、憧れます」 「……」  頭がぐらぐらする。 「本当に素敵」  だって、きっと彼女は、僕の――。  痛いのは小さい頃から大の苦手だった。  誰だって苦手だろうけれど、痛みに強い人っているでしょう?  僕はほんの少しだって痛いことは嫌で、子どもの頃は薔薇も苦手だった。庭に咲く薔薇がとても綺麗だからと安易に手を伸ばして、棘に触れてしまって、すごくすごく痛くて。  綺麗なだけならいいのに。  そんなことを考えて、とても残念に思ったっけ。  今も痛いことはとても苦手。  だから百合の方が好き。 「……うん、わかってるよ。着信のところに名前が出るから。…… 仕事、終わったの? …… じゃあ、今から、会おうか」  隣に座る兄の電話を邪魔しないように静かにスケジュールの確認をしていた。  今夜は兄を自宅まで送る必要はなさそうだ。この後、あのサラリーマンと会うようだから。 「そう? そしたら…… それじゃあ、また後で。気をつけて、ゆっくりおいで」  電話越しで相手に今の兄の表情は見えないだろうけれど、とても嬉しそうに微笑んでいる。一時期、もう終わったのだろうと思ったけれど、そうではなかったらしい。今はまた頻繁に会うようになった。しかも前よりもずっと溺愛しているように見える。  電話を終えた兄へわざと行き先を尋ねると、駅へ向かって欲しいと言われた。そのことをそのまま運転手へと伝えれば、車はルートを左へと切り替えて、あのサラリーマンのところへ向かう。 「…………いかがなものかと」  痛いことなんて誰もしたくないでしょう? 「どうしてだ?」 「仕事に支障をきたすようなことは」 「していないだろ? 今日の仕事は終わらせた。明日が休みにしてあるのは前々からの予定でそうなっていたはずだ。どこにも支障をきたしていないし、秘書であるお前を困らせてはいないだろ?」  今のところ僕は困っていない。けれど、彼では――。 「いつもの遊び相手とは、違いすぎるでしょう? …………兄さん。普段はもう少し手軽な相手を選んでいたのに、これじゃまるで、また」  本当の恋だ。ついこの間まであんなに表情を曇らせていたのに。今は毎日雲ひとつない快晴のような表情。気持ちをそんなに振り回されていたら。 「それに、どうせ」  壊れてしまった時、どれだけ胸が痛むんだろう。  相手は普通のサラリーマンだ。ホワイト企業とは程遠い、いつ潰れてしまうかもわからないような会社に努める、平凡なサラリーマン。  身分違いなんてことを言うつもりなんてない。そんな卑しい考え方はしない。けれど、いつだってそうだったでしょう? こちら側がそんなことは気にしないと言ったところで相手が立場の違いに戸惑って、躊躇って、兄のそばから離れていく。今まで何度も経験してきた痛みでしょう?  貴方の隣にいることはできないと引き返してしまう。  兄は優しい人だから、きっと今回だって、またそう言われて優しく頷くんだろう。別れを言われたのに相手に謝って、大事に、最後まで相手を思うんだ。家も、愛した人も大事に思って、そして自分のことは大事にせずに。 「雪隆」  そんな痛い思いなんてしないほうがいい。痛いのなんて誰だって嫌に決まってる。そう思った。 「……失礼しました。敦之様」  けれど、僕の言葉を遮った兄は。 「口が過ぎました。仕事以外のことでした」  楽しそうだった。  今度だって、いつかやってくるだろうその痛みを想像したはずなのに。ついこの間、あんなに悲しそうな顔をしていたのに。 「もう七月だな」 「? 何か、ありましたか?」 「いや……何も?」  七月になる。夏が来る。そのことが待ち遠しそうに兄は窓の外へと視線を移しながら、夏を楽しみにしているかのようにふわりと微笑んだ。これからのことを楽しみにしているように、瞳を輝かせて。 「……」  あぁ、そうか。彼の、小野池拓馬の誕生日だ。調査結果のところにあった、確か七月一日が誕生日だと。  だからだ。  彼の誕生日を楽しみにしているのか。 「そうですね。もう、夏です」 「あぁ」  彼の誕生日を共に過ごすことを楽しみにしている兄の横顔は彼の元へと近づいていく景色さえ楽しんでいるようだった。  痛い思いをするのに?  とてもとても好きだったとしても、いつか、終わってしまうのに?  何度も味わった痛みをまた味わうことになると決まっているのに?  それでも恋をするのだろうか。もうわかっているのに、それでも、恋にあんな笑顔を向けられるのだろうか。僕は怖がりだから、痛いのも、辛いのも、嫌だ。したくない。  だから、環さんに気持ちを言ったことはない。あの人の恋愛対象は女の人なのだから、言えば断られてしまう。断られたら痛いから言わなかった。  身体だけでかまわなかった。  興味本位でかまわなかった。  今だけでもよかったんだ。  でも、もう、それも終いにしないといけないのかもしれない。 「……もしもし、僕です」  夏が来たら、きっと僕は、もう。 「あの、今夜、手伝い、してもらえないですか?」  これを終いに――。

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