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第16話 人魚を捕まえた

 ――雪!  飛び込んできた彼はまるで王子様みたいだった。  人魚姫は王子の結婚に嘆き、海へ飛び込んで泡になってしまうけれど。僕は王子に――。 「はぁ……ったく」  王子にさらってもらえた。 「どうしてお前はそう……いっつも仕事のことがあるから肌身離さず持ってるスマホを置いてくんだよ」 「だ、だって」  兄には早とちりをよくすると笑われた。  彼女は、加奈子さんは僕の許嫁ではなくて、今後、上条家の花流を継いでいく人……になるかもしれない女性だった。  ――まぁ、許嫁だと思っていただけたんですか? 光栄です。でも、全然、そうではなくて、私は上条家のお花を学んでいる一生徒なんです。でも! いつかは継いでいきたいと思っています。世襲制をなくし、表現者と花の力のみでその技術を継承していく。芸術に義務などない、芸術は自由であるべきだという上条家のお考えにとても感銘を受けました。  父の前は祖父が当主だった。その前もそのずっと前も血筋で受け継いできた。だから僕は――。 「はぁ、汗かいた」  僕が継いで行かなくてはと、ずっと。  ――どうして兄の俺が恋愛を自由にしているのに、お前はしちゃいけないと思ったんだ。お前だって、自由にしていいに決まってるだろう? お前は妙に真面目だ。  兄はそう言って笑っていた。少し、長く芝居をしてしまったのはすまないと思っているって、本当はもう少し早くに加奈子さんのことを言うつもりだったけれど、つい、あまりに考え込んでいる僕の様子に言い出すタイミングが掴めなかったって。気難しい顔ばかりする僕を驚かせたかったんだと、悪戯がすぎる仕掛けに少し反省していた。けれど、いつも口の悪い弟に仕返しができたなって笑ってた。 「なんだよ。ありがとうございますって」 「だって」 「はい、そうですか。お疲れ様でした、とでも言って俺が止めると思ったか?」 「だって、貴方は」 「本当に手伝いで何年も何度も男を抱けるかよ」 「っ」  だって、手伝いって言ったのは貴方だ。いつもそう言って僕を。 「そうでも言わないとお前は頷かないだろ? 兄の友人、と、なんて。しかも、お前は家族にも自分のこと隠してるようだし。あんなにオープンな家にいながら、お前だけ詰襟ガッツリ上まで整えたようなツラしてんだ」 「……」 「好きだから抱いていたに決まってる。けどそう言ったらお前は逃げ出すから言わなかっただけ」  人間になってみたいと願った人魚は二本の足をもらい、代わりに声を失った。好きだと告げる声をなくしてしまうんだ。 「そ、そんなの……だって、環さん、女性が、たくさん」 「変に真面目なお前のことだ。俺がお前だけ相手にしてたら、自分のせいで俺に窮屈なことを強いているかもしれないって、身を引くだろ。手伝いなんてしなくていいって言いそうだ」 「!」 「女好き、なフリしてりゃ、その他大勢に混ざっているからとお前も気にしないだろ?」 「……」 「女なんて抱いてない」 「っ」  だってたくさんいた。エスコートしていた。綺麗な人、可愛い女性、大人びた人、そうでない人。色んな女性を。  特定の女性は……いなかった。貴方の好みも僕には定まらなかった。あれは、全部。 「カモフラージュだよ」 「!」  好きって言ってもらえたら、僕は確かに逃げ出していた。だってそんなの困る。僕もそうなのに、応えてもらってしまったら、僕はどうしたらいいのか分からなくなってしまう。いつか終いにしないといけないのだから、惜しくなってしまうでしょう?  数多の女性の中、ちょっと興味本位で抱いてくれてるんだって思ってた。僕はそれでよかったんだ。そうして、終いにした後、貴方に少し残念だって思ってもらえたらすごく嬉しいなって。 「お前しか抱いてないよ」 「……」 「ずっと」 「そ、んなの……」  終いにしなくていいなんて、そんなこと急に言われたって僕は。 「仕事でクソ忙しくって、やっとスマホを見ればお前からの着信があった。上機嫌で確認したら、ありがとうございました、の一言だ。慌てて電話をして、そこにいろっつったのにいねぇし。逃げやがって」  困るんだ。僕は、そういうの上手じゃないんだ。  ほら、いるでしょう? 人に自然に好かれる人と、どうしても上手にそれができない人。僕は後者だから。兄は前者。何が違うのかなんてわかったところで直せないよ。ほんのちょっとした小さな仕草一つで印象なんて違ってしまう。 「いっそいで電話したのに出ねぇし。仕方がないから敦之にかけて、そしたらあのホテルに向かったと思うとか言いやがるから」  自分もいるのにあたかも僕だけがそのホテルへ加奈子さんと向かったかのようにわざと告げた兄にけしかけられたと、環さんが舌打ちをした。 「まだ逃げるか?」 「っ」  だって、急に言われても。僕は、「嬉しい、僕も好きでした」なんて素直に簡単に言えるわけない。この状況にまだ狼狽えるばかりなんだから。 「お前を追いかけて汗かいた。シャワー浴びたい」 「!」 「あぁ、そうそう、好きだって最初に言ってたらお前は逃げ出してただろ? だから言わなかったけど、でも」  腰を引き寄せられて、ここは外なのに構わず環さんの懐に仕舞い込まれた。彼の低い声が耳元で聞こえて、ゾワゾワと感じてしまう。 「逃げても、俺はお前を捕まえてたけどな」  感じてしまって、僕は返事さえ上手にできそうになかった。

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