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第19話 大きな薔薇

「……な」  ――やっと手に入れた。  手に入れたって、僕なんか手に入れても別に面白くもないし楽しくもないでしょう。  ――楽しいよ。 ずっと手ぐすね引いて待ってたんだからな。  何、手ぐすねって。 笑いながらとても楽しそうに何言ってるの。朝から何の冗談ですか。  ――冗談なわけあるか。 本気だ。 ずっと。 「……な」  ――ずっとお前が落ちてくるのを待ってたんだから。 「何、 言ってるの」 「た、 大変申し訳ございません!」  ぽつりと、つい零れたその言葉に慌てた様子の声が返事をした。一人で書斎で仕事をしている最中のはずだったから僕はその声に驚いて、パッと顔を上げると、ハウスキーパーの女性が恐れ多いと頭を下げていた。僕が「何を言っているんだ」と咳いたのを自分がした質問の答えだと勘違いさせてしまったんだ。 「敦之様がいらっしゃていたので、コーヒーか紅茶どちらを召し上がりますかとお尋ねしてしまいました」 「え? に、兄さん? え」  コーヒーか紅茶どちらにしますか? と尋ねられて、何言ってるの? なんて返事。すごく感じが悪い人じゃないか。 「あ、いやっ、ごめんなさい。 そうじゃなくてっ」 「っぷ、あははは」 「! 兄さん」 「敦之様! 失礼致しました」 「いや、君は何も悪くないよ。すまない。案内される前に勝手に一人でこちらに来てしまった」  兄が、僕の仕事場にしている書斎の扉に寄り掛かるように立って、笑うのを堪えている。全然堪えきれていないけれど。 「可哀想に。雪隆、困らせないように」 「! いえ、 私はっ」 「コーヒーをお願いできるかな。おかしな独り言を言うくらい雪隆は寝ぼけてるみたいだから」 「はいっ、かしこまりました」  ハウスキーパーの女性は兄にお辞儀をするといそいそと書斎を後にした。兄はその部屋を出ていく彼女をにこやかに微笑んで見送ると、部屋の中へと入り書斎の僕の机の前にあるソファに腰を下ろした。 「元気なようだ」 「……今日は何か用事が?」  変なところを見られてしまった。彼女にも兄にも。そのバツの悪さにどうしてもロがへの字に曲がる僕に兄がとても楽しそうな顔をするから、またそれにもバツが悪くなって、今度は眉間に皺が寄ってしまう。 「どうもしない。実家に来るのに用事がないといけないのか?」 「別に」  いつもなら用事がない限りは実家になんて来ないくせに。 家を出て自立をしてから殆ど顔を出さないのに。 「加奈子さんがうちの花流を継いでいくなんて知りませんでした」 「言ってないからね」 「なんでっ」 「言う前にお前が勝手にそう早とちりをしたんだろう?」  お前はよく早とちりをすると忠告されたっけ。僕は何を言われているのかあまりわかっていなかったけれど。あの時点で加奈子さんのことは決まっていたんだろう。それを僕がお見合い結婚でも用意されているのかもしれないと早とちりをした。 「それにお前のことだ、 じゃあ世継ぎ問題は大丈夫ですねと手を引くのも、 自分が幸せになるためだけの選択肢も取らないと思ったから」  だって、苦手なんだ。  誰かに何かをお願いするのも、 してもらうのも。 申し訳なく思ってしまう。それでだれかに負荷がいってしまうのも嫌。 それをわかっていて、 もしくはその可能性があるかもしれないと知っていて、誰かに頼んだりするのができない。手伝ってくださいと自分から言うのはすごく苦手。  ――手伝いしてやろうか?  あの事だって、環さんが言ってくれたから頷けただけ。 「当主として表に俺を立たせることに申し訳なさを感じて、 世継き問題は自分が全て背負いこもうとしていただろう?」 「実際、貴方は家のせいで今まで色々あったじゃないですか。 だから、その問題くらいは僕がと思うんです。今回だって、まだ」 「いいんだ……拓馬は」  それは穏やかな声だった。 「いいって、だって」 「俺の誕生日には打ち明けるよ」  誕生日、兄が当主になる日。 「旅行に誘われてる」 「相手の方にですか?」 「拓馬だよ。小野池拓馬」  名前くらい知っている。 全て調べたもの。 調べた上で、覚えてもきっと無駄足になるだろうから覚えずにいるだけのこと。覚えたところで季節が変わる頃、 兄の誕生日には僕たちがこんな風にその人のことを話題に出すことはなくなっているに違いないから。  今までがそうだったように。 「誕生日に旅行をしようと話している」 「……」 「いいんだよ」  何がです? 何がいいの?  とても幸せそうだけれど、最近とても嬉しそうで楽しそうで良く笑っているところを見かけるけれど。だからこそ、その時がきたらとても痛いでしょう? 辛いでしょう? だからもうやめたはずなのに。 「その時が来るとしても、それでも拓馬しかいないんだ」  いつか壊れるって予想はできるのに? 「どうしても、彼がいいんだよ」 「……」 「初めてかもしれない。 こんなに一緒にいると幸せに気持ちになれたのは」  僕も……初めてかもしれない。 兄の、 こんな風に、とても幸せそうに、まるで陽の光をたくさん浴びて大きく花開いた見事な薔薇のように、笑った顔を見たのは。

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