30 / 55

我儘レッスン 1 3 魔法の手

 父はとても忙しい人だった。  母も、学校が終わって帰宅した時、家にいることの方が珍しいくらい、とても忙しい人だった。だから、風邪を引いて寝込んでしまうとハウスキーパーの方が看病してくれたりはしたけれど、基本的には一人でただ寝ているしかなくて。母が帰ってきてくれるとすごく安心したっけ。  母が帰ってきてくれただけで、少し熱が落ち着くような気がするほど。  帰宅予定は夜のはずだった母が夕方帰ってきてくれた。大きな家だから帰ってきたことに気がつくことはないけれど、苦しくて、どこもかしこもだるくて痛い中、部屋の扉が開いて、母が僕の名前を呼んでくれる。  ――ただいま。  急いで帰ってきてくれたんだ。それが嬉しくて。  ――大丈夫よ。おじやを食べてお水を飲んで、お薬飲めば明日には治っちゃうわ。  そう言って額を触ってくれる母の手の冷たさが心地良かった。  ――アイスも買ってきたからね。  母の手は魔法の手だと思った。触れただけで、あんなに辛かった風邪を良くしてしまう。不安で心細かったはずなのに、それが消えて無くなってしまう。魔法の手。 「…………!」  何かが頬に触れた。まるで母の手のように安心する大きな手。そしてそれが環さんの手だと気がついて、目を覚まして、ハッとした。僕、看病してたはずなのにって。 「……おはよう。起こしちまったな」 「! 環さん! あのっ僕っ」  風邪で寝込んでいたはずの環さんがベッドの端に座って、看病に訪れていたはずの僕がベッドで寝ていた。  昨夜高熱を出したはずの環さんが僕の頬を撫でてくれて、笑ってくれている。僕は――。 「ごめんなさいっ」 「いや、熱は引いたよ。俺もさっき起きた。平熱。そんでシャワーを浴びて、もうスッキリだ」 「本当に? あの……」 「本当だ」  額を差し出すように身体を傾けてくれたから、その額に触れると昨夜のように飛び上がるほどの高熱はなさそうだった。顔色も、表情もいつも通りの環さんだ。 「ベッドの端で居眠りなんてして、今度はお前に風邪を引かせるところだった。来週、大きな仕事があるって話してたろ?」 「僕は大丈夫です。風邪なんて引きません」  また、つい可愛くないことを言ってしまった僕に小さく笑っている。風邪を引いて寝込んでいた人になんて可愛げのないことを言うんだと自分でさえも思うのに気にもせずに笑ってくれる。看病にやってきたはずなのに寝入ってしまった自分に、看病していた相手にこうして尽してもらったことに、なんて失態だと落ち込む僕の首筋に手を添えてくれる。 「昨日は助かった。ここずっと難しい案件を抱えてたんだ。疲れが出た」 「……」 「もう終わった。それで安心したんだろ。悪かったな。昨日会う予定だったのに、看病させて」 「そんなことないです。会えましたよ? 環さんに」 「あぁ」  頷いて、笑っている。  編み目の細かい黒のニットに黒のルームパンツ。いつもは撫でつけて、かっこよくセットされている髪はさっきシャワーを浴びたと言っていた通り、何もセットせずにナチュラルなままで、寝起きの僕にはまだ、このルーズで隙のある。プライベートな環さんが眩しくて、つい俯いてしまうんだ。  ずっと身体の関係を持ってもらっていたけれど、それは決まって外で、ホテルでのことだったから。このプライベートな環さんにはまだちっとも慣れていない。 「お前んとこは風邪を引くと、おじや、なんだな」 「え? あ、僕、好きじゃなくて……お粥。なので味がついているおじやなんです」 「美味かった」 「あ、りがとう……ございます」  褒められるのもくすぐったくて、まだ全然慣れない。つい、俯いてしまう。ドキドキするプライベートな環さんに、不慣れな手料理を褒めてもらえたことに、嬉しくて、照れてしまって。 「アイスも」 「食欲もないから食べたくないけれど、アイスは食べやすくて、それに熱がある時にあの冷たさがちょうど良くて。いつもそうしてもらってたんです」 「あぁ、そうなんだろうなって思った」  風邪で寝込んでいる時、母が大急ぎで帰宅してくれる。それが一番嬉しくて、ホッとして、治ったような気さえした。 「すごく」 「?」 「安心したよ」 「……」 「雪が来てくれて」 「……」  貴方にとっての、それができた? 「ありがとうな」  風邪を引いて、心細かった貴方をホッと安堵させられた? 「風邪、移してないといいんだけどな……」 「だ、いじょうぶ、です」  風邪は大昔、子どもの頃に引いたきりだ。幼い頃は毎年のように熱を出して風邪を引いていたけれど、いつしか、それは自己管理ができていない証拠だと気をつけて、体調管理を心がけていたから。上条家の人間として。そのくらい管理できないなんてっていつも気を張っていたもの。 「そう?」 「えぇ」 「確かに、お前が風邪引いたところはガキの頃以外見たことないな」 「そんなの、覚えてるんですか?」 「覚えてるさ」  貴方がふわりと笑って、ベッドが僅かに軋んだ。 「ずっと」  貴方が身体を傾けたから。 「好きだったからな」  そっと僕にキスをくれたから。 「……ん」  ベッドのスプリングが僅かに揺れる。 「ぁ……」  貴方が僕に覆い被さって、優しくも深い口付けをくれたから。

ともだちにシェアしよう!