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初旅行編 1 レッツゴー
「へぇ、あいつが全部一人でセッティングしたんだ。まぁ、そういうのするの好きな奴だからな」
クスクス笑いながら、環さんが車内に流れる音楽に合わせて、長い指でトントンとハンドルを弾いた。
「でも、おかげで、俺は雪と旅行に行けるわけだ」
ニヤリと笑われて、どう返事をしたらいいのか困ってしまう。
「じゃあ、敦之には、土産、買ってやるようだな」
とても上機嫌な環さんをチラリと横目で見て、そっと窓の外を流れる景色へと目をやった。
言わなければ……よかったかなって、思いながら。
「次のサービスエリアで休憩するか」
「……えぇ」
おかげで旅行にって……環さんだって、兄と同じくらいに忙しい。なのに、つい言ってしまったんだ。兄は来月から旅行なんです、って。そしたら、環さんも予定を合わせてくたた。
ずっと、その旅行に向けて、兄は予定を詰め込んでいて、旅行の前はスケジュールが過密になっていた。地方での仕事が立て続けに入っていて、それでも家に帰りたい兄は飛行機を使っての弾丸スケジュールを決行した。どれも日帰りがいいからと、でも、その無理なスケジュールでも待っている人がいるというのは違うんだろう。仕事はいつでも完璧。本当にすごいと思う。
それだけ話せばよかった。
兄のマネージャーを務めている僕は予定が連動してる。ただ、忙しいとだけ言えばよかった。
そしたら、こんな、旅行なんて。
環さんも忙しいのに。
優秀な人だから、きっとまた難しい案件をこなしてたんだと思う。こちらも仕事は忙しいからと、それを理由にして、僕のことはかまわなくていいからと言っているのに。
なのに、つい、兄が旅行なんだと言ってしまった。
「よかったな。渋滞してなくて」
サービスエリアの一角にするりと滑るように車を停めて、環さんが外へ出る。急がないとこちらのドアを開けてエスコートされてしまうと、慌てて、自分から外へと出る。
「……平日だからでしょうね」
「まぁな。この前、仕事で週末に高速乗った時は死にそうだったよ。大渋滞で」
環さんも地方に出張があった。
だから、僕は一人留守番で。その間は夜、電話してた。
少し……寂しかった。
そして、自分が寂しいなんて思うとは、思わなかった。
ずっと一人で生きてくって思っていたはずなのに、それでいいはずだったのに。
今の僕は環さんのいない部屋で夜を過ごすのはとても寂しくてたまらなくなってしまった。
「……一人で運転、だったんですか? 秘書とか……」
「…………ははぁ、俺が美人秘書と浮気、なんて心配してるんだろ」
外の空気を胸に吸い込んで、トイレに行こうと思ったら、クルリと振り返って、環さんが楽しそうにこっちを覗き込む。
「! し、してませんよっ」
ニヤリと笑って、目を細めて、至近距離で笑ってる。僕の、好きな笑い方。意地悪で、ズルい大人の男の笑顔。
「安心しろ。浮気なんて絶対にしないし、一人で行ったから」
「……」
もう、ほら、バカ。本当にちょっと安心してしまった。
「秘書なんていらない」
「そんなわけ」
「一人欲しい人材はいるが無理だろうな」
「……そう、なんですか?」
すごいな。この環さんに欲しいと思ってもらえるような秘書なんて。きっとすごい人なんだろう。無理だなんて、環さんの誘いを断る人なんているんだろうか。バチが当たるんだから。環さんに欲しいって思ってもらえるのに、断るなんて。
「っぷは、誰だろうって思った? 超多忙だろうがスケジュール調整して三日の休暇を獲得して、ご当主様のワガママにだって対応できる優秀な奴だよ」
「……」
「お前だっつうの」
「!」
そして環さんが僕の鼻を摘んだ。
「ご当主様に呆れたら、うちに来いよ」
摘んで、パッと離して、目を丸くする僕に笑ってる。
「うちに来たら、永久就職させてやる」
「!」
そんな、ご機嫌は環さんの背後には高層ビルじゃなくて、雲ひとつない青空に輝くような緑の深い山が連なっていた。
「おし、コーヒーも買ったし。こっから、あと一時間くらいかな。雪、何にも食い物買わなくてよかったのか?」
「はい。大丈夫です。って……あ、環さん、ここから僕が運転しますよ」
「あ? なんで? 酔ったか?」
「い、いえっ、そうじゃなくて。疲れたでしょう? 昨日までお仕事だったんですから」
「それはお前もだろうが」
「ぼ、僕はっ。それに、運転なら慣れてます」
兄、上条家当主を乗せた車の運転はよっぽどのことがない限り僕がしてる。だから、運転には慣れてるんだ。
「だーめ」
「でも、ずっと運転していただいてて、……っ」
交代交代でやった方がいいでしょう?
「ダメ」
「なんっ」
「襲いたくなるから」
「!」
車のところまでやってきてグイッと腰を引き寄せられた。
「ハンドル握ってる手首の細さ、横顔、あの密室感、ムラムラするからダメ」
「!」
ちょっと、熱い。
「安全運転、だろ?」
「! な、何言って」
「あははは。だから、大人しく隣に座ってろ」
熱、くなっちゃいそう。
「ほら、行くぞ。宿まではもう少しだ」
忙しかったから。
「は、はい」
だから、すごく、僕も……。
「すみません。お願い、します」
小さくお辞儀をして、頬が熱かったからエアコンの風に頬をさらして、走り出す車の中でチラリと環さんのハンドルを握る手眺めていた。
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