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恋する花たち編 1 花の笑み

 上条の人間たるもの、花のように凛としていなければならない。  花を活ける者として、花よりも美しく、花よりも清々しく、花よりも可憐に上品に。  兄はまさにそんな人間だと思う。髪の先から、指の先まで、美しく、清々しく、けれど、たまに手折ることが容易なほど弱いところもある人だと思っていた。 「…………はい? 釣りですか?」  恋をすると、こうも人は変わるのかと、兄をすぐその後ろでずっと見守っていた僕は、驚いている。 「そう、釣りに行きたいんだ」  その兄が仕事の移動中、そんなことをにっこりと笑いながら言った。 「……はぁ」  また、この人は一体何を言い出したのだろう。 「釣りに行きたいんだ」  花のように微笑みながら、また、突拍子もないことを言い出している。 「そう、今、言われましたね」 「手配、頼めないかな。自分でやればいいとは思うんだが、人脈なら雪隆の方があるだろ?」 「そう、ですね」 「川で行う釣りがいいんだ」 「……はぁ」  川? 渓流釣り? 海じゃなくて? 海なら、親戚の叔父様にお願いして船借りて、と思ったけれど。渓流釣りか。 「できたら、のんびり楽しめそうな」 「……はぁ」 「町内会、みたいな組織で開催しているようなのがいい」 「ちょう……はぁ、拓馬さんと一緒に行かれるんですね」  渓流釣りじゃなく、のんびりと、町内会で、なるほど。そっち、なのか。 「! そう! そうなんだ」  どうしてわかったのだろう、みたいな顔をしている。 「……はぁ」 「誰か、伝手がありそうか? 一度、釣りの協会会長と会食をしたことがあるだろう? あの時の会長に尋ねようかと思ったんだが、もう引退されているらしくて」 「え?」  そっちに行こうとしたのか、この人は。 「現会長には面識……」 「そっちじゃないです」  じゃあ、どっちなんだ? と不思議そうな顔をしている。  きっとこういうこと、なのでしょう? 釣りで町内会で、拓馬さんを連れて行きたいと。昔、拓馬さんがしたことがあるんだと話を聞いて、その話をしている時の拓馬さんが楽しそうだったから、自分もそんな拓馬さんを見てみたいとか。もしくは、楽しそうにしていたから自分も体感してみたい、とか。  なら、釣りの協会に頼むのは違うから。 「僕が手配します」  そこで兄がひまわりみたいにパッと表情を明るくさせた。 「日にちはこちらで適当な日にちを確保しますね」 「ありがとう」 「少しお時間いただきますが」 「もちろん。忙しいところすまない」 「いいえ。貴方のスケジュール管理も私の仕事ですから」  ひまわりが風に揺れているみたいに、ふわりと頭を傾げて、その頬さえ少し赤くして、たまらなく嬉しそうな顔をした。  兄がこんなふうに笑う人だとは、知らなかったんだ。  もっと――。 「あ、それから、雪隆」 「はい」 「明々後日から二日間、休みを取るように」 「え? あの、ですが、明々後日だと」  講演会がある。午前が講演会で、その後、主催と会食して、午後は活ける仕事が二件。遅くにはならないようにしている分、時間は分刻みのスケジュールだ。 「講演会と、食事会、それから花の仕事が二つ、だろう?」 「えぇ、なので」 「運転手の新井さんにルートだけ伝えれば後はそこに移動して仕事をするだけだ。雪隆がいなくてもこなせる」 「ですが」 「今日で、四日連続で勤務」 「!」 「明々後日も仕事をしていたら、もう一週間連続勤務になる。これじゃ、ブラック企業だ」 「!」  別に、いくらでも仕事はする。僕が上条の名前に貢献できるのはそのくらいだけなのだから。一週間でも、十日でも。 「少し休むように」 「いえ、でも、」 「それに、雪隆がいない方が早く終わった時に、そのまま帰れる。お前がいると、たまに、早く終わったのなら、この取材の事前アンケートに答えろだ、この会報原稿を修正しておけだ、と仕事を前倒ししてくるから」 「!」 「そんなわけだから、その日は休みにするように」  兄の。 「いいね?」  こんな笑顔を僕は知らなかった。 「はい。承知しました」  兄は花のように美しく、花のように清々しく。けれど、花のように簡単に手折ることができそうな弱さもある人だった。 「釣り、ありがとう」 「いえ」  けれど拓馬さんの存在が兄を変えたのだろう。手折ることは難しそうな、しなやかな強さがある。花のように甘やかで、美しく、けれど、太陽の強い日差しにも負けないような頑丈な根を張った樹木のようでもあって。 「じゃあ、俺は今から撮影に行くから」 「はい。今日は会報用の撮影なので」 「テキパキ終わらせる」 「はい」  ほら、その歩く後ろ姿すら、気持ちよく清々しい。 「! ……もしもし」  慌てて、廊下の端へと移動した。内ポケットに入れいたスマホに着信があったから。それがどなたからなのかを確認しながら、人の邪魔にならない端へと。 『お疲れ』  その声に、ふわりと気持ちがほぐれていく。  環さんだ。 「お疲れ様です」 『今、大丈夫か?』 「はい」  今日は、外にいるのかな。雑多な音が環さんの向こう側から、彼の低い声を僅かに邪魔してくる。 『明々後日から二日間、オフなんだ。雪もオフならデート、しよう』 「!」 『雪?』 「あ、いえ」  偶然? 『忙しいか?』 「い、いえっ、あの、大丈夫です」 『それならよかった。じゃあ、また』 「はい……また」  とても忙しい人。電話もきっと隙間の時間にかけてくれたのだろう。  ここ最近、お互いの仕事のタイミングが合ってなくて、ゆっくり二人で過ごす時間があまりなかったから。 「……」  嬉しい。 「雪隆」 「! は、はいっ」  俯いて、環さんの声が耳に残っているのを噛み締めながら、聞き慣れているはずの、そして一番大好きな声に胸を踊らせていたところ、突然、兄に呼ばれて、パッと顔を上げた。 「よかったな」 「!」  そう言って笑う兄はまるで太陽のように輝いていて、手折られることのないよう花も草も、全てを育てるような温かさがあった。

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