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恋する花たち編 2  恋とは

 昔の、拓馬さんに出会う前の兄はあんなに笑うことはなかった。いつだって、少し遠慮がちに、少し相手に合わせるように、そっと笑う、そんな感じがした。  今の兄は、子どもみたいに笑うことがある。もちろん上條の当主として表に立つ時は違うけれど。拓馬さんのこととなると、瞬きひとつの間に、その雰囲気さえ変わるというか。  本当に楽しそうに笑う。  それは拓馬さん、だからなのだろう。  二人が一緒にいるところを見ていると、それをとてもよく感じる。 「兄に伝言をお願いできますか?」 『え? あの』  彼の柔らかい声が兄の気持ちを柔らかくときほぐす。 「今日、僕はオフをいただいてるんです」  あ、そういえば。  似ているかもしれない。 「夏休み期間の、地区釣りの体験イベント、参加可能になりましたから。予定もその日とその翌日は空けてあります。ゆっくり過ごして良いですよ、って」 『はい…………えっ?』  彼の笑い方と、兄の笑い方。  なんというか、顔が似ているとかではなく、なんだか雰囲気というか。 「釣り竿等、道具などは不要とのことです。張り切って高価なものなど買わないように。浮きます」 『浮っ』  うん。似てる。表情の弾け方とか。  拓馬さんの表情ひとつ一つにいつも兄は宝物でも見つけたように嬉しそうな顔をする。 「詳細は田中さんからデータいただくので、それを転送しておきます。あ、でも、お昼までのイベントだそうです。お弁当は自由、だったかと。とりあえず、参加可能とだけ」  だから、この件もきっとさぞかし嬉しそうにするのだろう。 「それでは、失礼します」 「恋」というもので、そんなに人が変われるものなのだろうかと。  ちょうど昼休憩の時間、拓馬さんへの電話を終えて、そのスマホをじっと見つめた。  これで釣りの一件は大丈夫、かな。  偶然、ちょうどいい方と繋がりがあって助かった。  兄は釣り、なんてしたことないだろうけれど、まぁ、楽しんでリフレッシュができたら、創作にも良い影響あるだろうし。何より、きっととても喜ぶんだろう。  まさか、釣りがしたいなんて言い出すとは思わなかった。  昔の兄からは想像できない行動力というか。  ――この、差し入れのお菓子、拓馬が好きそうだ。  ――ここのレストラン予約しておこう。拓馬にメインディッシュとデザートを食べさせたい。  ――すまない。少し買い物をしても? 拓馬にお土産を買いたいんだ。  笑ってしまうくらい、兄の頭の中は拓馬さんのことばかりで。拓馬さんのこととなると、パッと表情を輝かせるんだ。  でも、彼と出会ってからの兄の花は確かに違う。目ざとい人ならすぐに気がつくほど。  ――最近の上條さんのお花は柔らかくしなやかなだけじゃなく、力強く温かいわ。  そう言ってもらえることが増えていた。柔らかくしなやかで美しい、となら昔からよく言って貰えることがあったけれど。  ――見ていると、何だか元気になるんです。  そんな花を活ける華人になった。 「……」  すごいことだと思う。  恋で、その所作一つ、見るもの触れるもの、全てが変わるなんて。  恋、で人が変わるのなら。  僕もそう、だったりするのかな。  僕も、恋で、何かが変わったり――。 「珍しいな。うちで仕事の続きするなんて」 「! すみません。これは、仕事というか」  握りしめたままじっと見つめていたスマホをパッと膝の上に置き、ソファに座っていた僕はその場で立ち上がろうとした。けれど、環さんが隣に座ったから、僕も立ち上がることなく、そのままじっと彼を見つめて。 「いいよ。お前が忙しいのなんて昔からよくわかってる」  急遽で本当に休ませてもらってしまった。  というよりも、本当に休むしかないほど、僕の業務がきれいさっぱりこの二日間分なくなってしまっていた。まるで魔法のように消えてしまって。仕事したくともできそうにないから。  本当に、誘ってもらえた環さんのおうちに転がり込んでしまって。 「別に、雪が仕事してるところを見るのは好きなんだ」 「何も面白いことなどひとつも」  ない、でしょう?  ただのデスクワークと当主のスケジュール管理に打ち合わせ。何ひとつとして、環さんの娯楽になりそうなことはない。 「面白い、んじゃなくて、楽しくて好きなんだ」 「?」  どういうことだろうと、首を傾げて、不思議そうに彼を見つめると、クスッと笑っている。 「仕事はテキパキこなすし、いつだって完璧。清廉潔白」  笑って、長い指で、僕の頬に触れた。 「けど、ベッドの中では甘くて、柔らかくて、やらしい」 「!」 「しかも、それを知ってるのは俺だけ」  だって、貴方しか欲しくないもの。 「楽しいだろ」  だって、貴方以外を好きになったこと、ないもの。 「今、凛とした口調で話してた唇が」  ふわりと環さんの唇が僕に触れて、小さく、けれど、気持ちが弾む。まるで、自転車に乗った時にだけ感じる風を、頬で感じた時みたいに、気持ちが晴れやかで、そして少しワクワクする。 「こうしてキスをすると、柔らかくて、甘いとか」  だって、僕はとても。 「楽しいに決まってる」  いつだって貴方に、夢中、なんだもの。

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